今の“派閥”とは何が違ったか(写真は1960年の遊説先での池田陣営/共同通信社)
嘘を詫びた側近たち
池田と側近たちは、引き際も鮮やかだった。
池田は1964年の東京五輪直前、国立がんセンターに入院した。
当時のがんセンター院長は記者会見で「池田総理の病気はがんではありません。放っておくとがんになる前がん症状です」と発表し、池田は一時退院して五輪の開会式だけ出席するとすぐに病院に戻った。
そして五輪の閉会翌日、池田側近で宏池会会長の前尾繁三郎が緊急会見を開いた。
「前尾さんは、『私は国民に嘘をつきました。謝りたい』と切り出し、『池田さんの病気は前がん症状じゃありません。喉頭がんです』と明らかにした上で、『総理大臣ががんということを表明すると国民が動揺する。せっかくの東京五輪に水を差すので、自分が院長にご無理を申し上げて、嘘をつくように言いました』と率直に詫び、池田さんの退陣を発表した。
国民が五輪に夢中になっている時に、前尾さん、大平さん、宮沢喜一さんといった側近たちは自民党の幹部たちを回って、政治空白をつくらないために池田さんの後継指名で次の総裁を決めたいと退陣の根回しをした。そう言われれば誰も文句は言えない。見事な政権の幕引きだった」(山岸氏)
そして国民への謝罪会見の後、池田は後継首相にライバルだった佐藤栄作を指名する。
池田の所得倍増は10年計画だったが、折からの高度成長でわずか7年間で実現した。しかし、その成果を見届けぬまま、東京五輪の翌年、がんで死去した。
宏池会の政策重視の体質は、池田の死後、大平派、宮沢派へと代替わりしても続いた。宮沢派OBの鈴木恒夫・元文科相が語る。
「私がいた当時も宏池会は官僚OBが多かった。岸田総理の父親の文武さん(元通産官僚)もいました。官僚出身者は政策のプロですから、政治家として法案、政策をつくるのは得意。法律なんかも、ささっと骨子をつくってきて、それに対して皆で知恵を出し合いながら形をつくると、そういうことをやっていました」