長嶋茂雄、星野仙一、野村克也、仰木彬ら、当時監督だった錚々たる顔ぶれがくじ引きに参加する中で、福留孝介の入団交渉権を引き当てたのは近鉄の佐々木恭介監督だった(1995年のドラフト会議。時事通信フォト)
後に新垣渚、菅野智之も1位指名拒否後にプロ入り
1位指名は相当な実力を認められてのこと。「高卒で江川がプロ入りしたら300勝したはずだ」「大卒で小池が入団したら球界を代表する左腕になったに違いない」。当時はそんな論調が主流だった。つまり、“1位指名拒否は遠回り”が1990年代までの定説だったのだ。それを覆したのが、福留と内海である。
福留は1年目の1999年からレギュラーを奪い、4年目の2002年には首位打者を獲得して巨人・松井秀喜の三冠王を阻んだ。2004年に就任した落合博満監督の元でも主軸として働き、優勝した2006年には3割5分1厘の高打率でMVPを獲得。2008年からは海を渡り、シカゴ・カブスなどで活躍した。2013年に阪神で日本復帰を果たすと、2016年に日米通算2000本安打を達成。“1位指名拒否選手”として初の名球会入りを果たした。
内海は3年目に初めて2ケタ勝利を挙げ、翌年は奪三振王にも輝き、巨人の5年ぶりの優勝に貢献。2011年から2年連続最多勝にもなり、原辰徳監督の第2次政権、6度の優勝時のエースとなった。2019年に炭谷銀仁朗のFA移籍に伴う人的補償で西武に移籍し、現在まで135勝を記録している。
福留以降の“1位指名拒否”は内海のほかに、新垣渚(オリックス拒否→ダイエー自由枠入団)と菅野智之(日本ハム拒否→巨人1位入団)がいる。新垣は3年連続2ケタ勝利で一時ソフトバンクのエース格となり、菅野も既に114勝(2022年9月9日現在)を挙げており、堂々たる巨人のエースになった。
なぜ、一度1位指名を拒否しても、プロで活躍できる選手が増えたのか。
投手でいえば、先発完投が理想とされた1990年代前半までと比べ、1990年代後半以降は分業化が年を追うごとに加速化していった。甲子園で1人で投げ切る高校生も減っていき、アマチュア時代の酷使によってケガを負ってプロで力を発揮できない例も少なくなっている。投手についても野手についても、身体のケアに関する研究が年々進み、全体的に選手を取り巻く環境や指導者の意識も変わっている。
そんな背景もありながら、入団時に“1位指名拒否選手”という冷たい視線に晒されることもあった福留と内海はプレッシャーに打ち勝ち、“1位指名拒否は遠回り”という球界の定説を破った名選手だった。
■文/岡野誠:ライター、松木安太郎研究家。NEWSポストセブン掲載の〈検証 松木安太郎氏「いいボールだ!」は本当にいいボールか?〉(2019年2月)が第26回『編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞』デジタル賞を受賞。著書『田原俊彦論 芸能界アイドル戦記1979-2018』(青弓社)では本人へのインタビュー、野村宏伸など関係者への取材などを通じて、人気絶頂から事務所独立、苦境、現在の復活まで熱のこもった筆致で描き出した。