父・勝五郎について報じた読売新聞の記事の一部(著者撮影)
読売で報じられた戦渦の「父」
そんな田中家も戦禍の波に否応なく巻き込まれる。敬子が生まれる三年前の1938年、勝五郎は徴兵され中国戦線に送られた。階級は伍長で戦地は徐州。すなわち、包囲戦として知られる徐州会戦に加わったのだ。
「父は『麦と兵隊』に登場してるんです」と敬子は言う。
「父が言うには、敵に包囲されて“いよいよ”ってときに、車で敵陣を突破したら、銃で『ダダーッ』って撃たれたらしくて、フロントガラスが『バリバリバリッ』って割れて、死にかけたんです。『作品の中にその場面が出て来る』って父から何度も聞かされたものです」
『糞尿譚』で1937年度・下半期の芥川賞を受賞した火野葦平が中支派遣軍報道部に転属後、戦地で筆を執った『麦と兵隊』は一級の戦記文学であり、日本軍の残虐行為が当時の検閲に抵触して、削除されたことでも知られる。実際に『麦と兵隊』を手に取ると「五月十六日」の記述に次のような場面が出て来る。
〈其処に居た衛生隊の少尉が大隊副官と協議の上、一人の歩兵伍長を衛生隊のトラックに乗せて、後衛として後方から前進している筈の寺垣部隊に急遽応援を頼むため、出発させた。(中略)これは甚だ危ぶまれることではあったが、成功不成功の如何に拘らず、今の事態としては唯一採るべき唯一の事態と思われた。使者は決心の色を眉宇の間に漂わせ、死してもこの任務を果します、と低い声ではあったが、たのもしい力の籠った声で云った〉(『麦と兵隊』火野葦平著/角川文庫)
この歩兵伍長こそが、敬子の父親である田中勝五郎だった。驚くことに、この様子が読売新聞・神奈川版(当時の名称は神奈川読売)に「戸口で叫ぶ戦地の倅」という見出しとともに報じられている。
〈敵の獣医に陥って全軍総くづれと見られた時 弾丸雨飛の真只中に突然一台のトラックが飛び出し敵機銃の猛射を浴びつつ奥地に進んで行く 大胆と云おうか、無謀と云おうか、このトラックには後方から前進してくる部隊に応援を求める重大任務を帯びた歩兵伍長田中勝五郎君=横浜中区久保町四六=が乗っていたのである。火野葦平は「麦と兵隊」のなかでこの時の模様をこんな風に書いている〉(昭和14年10月4日付/神奈川読売)
記事によると、城壁に籠る敵の銃弾を一斉に浴びて、フロントガラスが破壊、運転席の勝五郎は死んだと誰もが思った。しかし、弾丸は奇跡的に当たらなかった。「死ぬもんか、生きなければならない。俺が死んだらどうなる。任務を果たすまでは死なないぞ」(同)と誓った彼の脳裏には、郷里で待つ母の顔が浮かんだ。「お母さん!」と叫びながら敵の包囲を突破したと記事は克明に伝えるが、同じ時刻、保土ヶ谷の田中家では不思議なことが起きていた。