〈母親のしがさんが寝ていると表の戸口で「お母さん、お母さん」と呼ぶ声がする。確かに戦地に居る勝五郎君の声である。しがさんはハッとして飛び起きた。「今頃どうして帰って来たのだい」と沸き立つ胸をおさえながら戸口に立ったがどうしても戸が開かない。「勝五郎、勝五郎」と呼び続けているうちに我に返った。戸を開けて表へ出てみたが息子の姿など何処にもなかった〉(同)
寝巻姿のまま外に飛び出した志がは、自宅から300mほど離れた西久保町(現・保土ヶ谷区西久保町118)の杉山神社の社殿に駆け上って祈り続けた。程なくして、保土ヶ谷の田中家には勝五郎の死亡通知が届いた。
帰還後は「警察官」に
「もちろん、名誉の戦死になるんでしょうけど、ウチの中はすっかり静まり返ったみたい。でも、祖母だけが『いいや、私は絶対に信じない。勝五郎は絶対に生きて帰る。私にはわかる』って言い張って、葬式も出さずに父の帰る日を待っていたそうです。それで杉山神社に百日詣りしたんですよ。周囲の人は『また、田中のお母さんの癇癪が始まった』ってなもんだったんでしょう。でも、確固たる信念があったんです。私の生まれる前の話だけど、そのときの祖母の様子が何となく想像がつきます」
すると、本当に奇跡が起きた。勝五郎が帰還したのである。「生き返った」と村中が大騒ぎとなった。新聞は顛末を次のように伝える。
〈夜が白々と明け離れるまでしがさんは、まるで憑かれた人のように社殿に額づいたまま動かなかった。その頃戦地の勝五郎君はかすり傷一つ負わず、重大な任務を立派に果して部隊へ帰っていた頃だったのだ。(中略)しがさんは「八幡様の御加護があったればこそですわ」としみじみ語った〉(同)
火野葦平も勝五郎をこう称えている。
〈連絡に行った歩兵伍長は途中で会った戦車を此方にさし向け、その上地理不案内の所をよく任務を果たした。沈着豪胆だと思い、会いたいと思ったが何処にいるかも判らず、名前も判らなかった〉(『麦と兵隊』火野葦平著/角川文庫)
火野葦平は、終戦から15年経った1960年、53歳を迎える誕生日前日の1月24日に服毒自殺している。五歳下の田中勝五郎は、火野の訃報をどういう想いで耳にしたのだろう。
しかし、重要なのは実はそのことではない。
身体も癒えて、百姓仕事に戻ろうとした勝五郎に、志がはこう告げたのだ。
「いいかい、お前は天から生かされたんだから、百姓はもうおやめ。この先の人生は与えられたものだから、国に仕えなさい」
勝五郎は、農業から足を洗って猛勉強を開始する。警視庁の中途採用試験を受けるためで、何度かの挑戦の末に合格、警察官として新しい人生を踏み出すことになる。
この転身が、その後の田中家の運命を大きく変えることになるのだが、このときはまだ、そのことに、誰一人として気付く者はいなかった。
(文中敬称略。以下次回、毎週金曜日配信予定)