中国革命への強い「肩入れ」

 こうしたなか、この年の八月から九月にかけて中国に駐屯していた日本陸軍と袁世凱の北軍との間で、小規模だが衝突事件が起きた。エン州事件、漢口事件、「南京事件」と呼ばれるものだ。まずエン州事件は、七月二十八日、軍命によって私服でエン州を偵察していた北支派遣隊中隊長の川崎享一大尉が正体を見破られスパイ容疑で北軍の兵士に捕らえられた。その後八月八日までエン州の北軍兵営内に監禁されたというものだ。

 漢口事件も、北軍偵察のため八月十一日、陸軍から漢口に派遣された西村彦馬少尉が北軍の将校に発見され、相手の上腕部を短刀で刺して逃げようとしたところ、北軍兵士たちに取り押えられしばらく監禁されたという事件である。

 南京事件は、言うまでも無く現在も中国が主張している「南京大虐殺」とはまったくの別の事件で、そもそもの発端は第二革命に共感した十四人の日本人が革命派の拠点である南京で革命軍の援助を続けていたことにある。九月一日、圧倒的に優勢な北軍が南京を陥落させたため、彼らのうち四人は逃亡を試み途中で合流した別グループの四人と計八名で日の丸を掲げて日本領事館に駆け込もうとしたところ北軍兵士に射撃され、二名が即死した。以上が、三事件の概要である。

 容易に推測できるように、これらの事件の起こった背景には日本人の中国革命への強い「肩入れ」がある。これも第二十七巻でおおいに語ったところだが、梅屋庄吉、宮崎滔天など初期の「中国革命応援団」の思い入れは、きわめて純粋なものだった。言葉を換えて言えば、古くは勝海舟に見られたような中国・朝鮮・日本の「三国」が共に近代化を成し遂げて欧米列強に対抗していこう、という理想主義に根差すものであった。

 しかし、その理想はなかなか実現しなかった。朱子学という「呪われた哲学」に中国・朝鮮が毒されていたせいである。しかし、そのなかでもキリスト教の影響を強く受けた孫文は、その悪影響を脱し真の西洋近代化をめざしていた。だからこそ梅屋庄吉も宮崎滔天も孫文を熱心に応援したのだが、結局中国は全体としては朱子学の悪影響を払拭することができず、それが袁世凱という保守的権力者の隆盛につながった。

 こうしたなか、福澤諭吉は早々と「勝海舟的アジアの連帯」の実現不可能を説き、「脱亜入欧」こそ正しい日本の方向性だと断じた。その流れを象徴するのが、フィリピンの独立では無くアメリカによる植民地支配を容認した「桂―タフト協定」の成立である。別の言葉で言えば、「欧米列強という白人帝国主義者グループへの加入」だ。しかし、理想主義というのは簡単に滅びはしない。むしろ実現不可能であると主張されればされるほど、それに命を懸けようという若者も出てくる。この時代のそうした風潮を体現した象徴的な人物と言えば、のちに軍事小説家として一世を風靡した山中峯太郎だろう。

〈山中峯太郎 やまなかみねたろう[1885―1966]
小説家、児童文学者。大阪生まれ。3歳のとき1等軍医山中恒斎(こうさい)の養子となり、陸軍幼年学校、陸軍士官学校に学ぶ。陸軍大学校に進んだが中退、中国革命軍に投じた。亡命の形で帰国。大衆小説を書くかたわら、数奇な体験を生かして執筆した少年軍事冒険小説が、昭和初年代の少年たちの絶大な人気を得た。作風は押川春浪(しゅんろう)の流れをくむ正統的軍事冒険小説で、日露戦争に材を得た『敵中横断三百里』(1930)、作者の理想像を描いた主人公本郷義昭(ほんごうよしあき)が活躍する『亜細亜(アジヤ)の曙(あけぼの)』(1931~32)などを『少年倶楽部(くらぶ)』に、『見えない飛行機』(1935~36)を『幼年倶楽部』に、『万国の王城』(1931~32)を『少女倶楽部』に連載。第二次世界大戦後『実録アジアの曙』(1962)で文芸春秋読者賞を受賞した。〉
(『日本大百科全書〈ニッポニカ〉』小学館刊 項目執筆者二上洋一)

 私が歴史を理解する「極意」として推奨することの一つに、当時の人々の気持ちになって考える、ということがある。この『逆説の日本史』シリーズの愛読者は、「そんなこと簡単じゃないか」とは決して言わないだろう。では、この山中峯太郎の経歴を見て、戦前育ちの人だったらまずなにを考えるだろうか? 答えは「なんともったいない」だろう。陸軍大学まで進んだのである、しかも、幼年学校を優秀な成績で卒業した山中は、明治天皇に異例の御前講義まで行なっている。その後、日本陸軍全体の頂点に立つことも夢では無かったということなのだ。それをあっさりと捨てた。中国革命という大義のために、だ。

 さて、ここで改めて考えていただきたい。では、当時の人々の気持ちで考えれば「中国との親善」とはどのように進められるべきか、ということを。

(1380回に続く)

【プロフィール】
井沢元彦(いざわ・もとひこ)/作家。1954年愛知県生まれ。早稲田大学法学部卒。TBS報道局記者時代の1980年に、『猿丸幻視行』で第26回江戸川乱歩賞を受賞、歴史推理小説に独自の世界を拓く。本連載をまとめた『逆説の日本史』シリーズのほか、『天皇になろうとした将軍』『「言霊の国」解体新書』など著書多数。現在は執筆活動以外にも活躍の場を広げ、YouTubeチャンネル「井沢元彦の逆説チャンネル」にて動画コンテンツも無料配信中。

※週刊ポスト2023年5月19日号

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