袁世凱政権の「寛大なる処置」
さて、当時の一般大衆は中国問題をどう考えていたか? 繰り返すまでも無いかもしれないが、軍部はともかく普通の日本国民は孫文の「大応援団」であり、孫文の指導の下に中国が日本のような近代国家になることを心から望んでいた。山中が義勇兵として革命軍に参加したのも、中国軍人に多くの友人がいたからで、その友人たちは孫文の革命(辛亥革命)が成功した後、日本の士官学校に短期留学した人々であった。
しかし孫文の理想は袁世凱に踏みにじられ、立憲国家を作ろうとした宋教仁に至っては暗殺されてしまった。たまりかねた革命派はいわゆる第二革命を起こしたが、袁世凱率いる「北軍」に革命派の「南軍」は次々と撃破された。山中が義勇兵として戦線に参加したのは、この時である。
当時の日本人の気持ちになって考えてみよう。言うまでも無いだろう、袁世凱は「極悪人」である。もちろんすでに詳しく述べたように、孫文が袁世凱に大総統の座を譲ったのは、それなりのわけがあった。中国の国内事情と言っていい。政治というものは、理想を求めると同時に必ず現実との妥協を余儀無くされる。辛亥革命の時点においては孫文にとって「清朝に終止符を打つ」というのが、もっとも重要な政治課題であった。
そのためには現実と妥協することもやむを得ず、その妥協が具体的には大総統の座を袁世凱に譲ることであった。そして、それは中国国内においてはやむを得ないこととして現実主義者の支持を受けた政策でもあった。だからこそ、第二革命はことごとく失敗したのである。袁世凱が中国民衆に蛇蝎のごとく嫌われていたとしたら、第二革命は成功したはずだ。
しかし、日本国民の多くはそういう現実を見なかった。むしろ袁世凱が勝ったのは日本政府が中国人民の意向を無視して袁世凱政権の承認に踏み切り、あまつさえその借款に応じたからだと見た。実際に袁世凱が中国の塩税収入を担保として日本を含む列強から受けた借款は、第二革命つぶしの軍資金として使われたので、日本国民はいまの日本政府の外交方針は間違っていると考えるようになった。
そこで連続して起こったのが、前回紹介した日本陸軍と袁世凱の「北軍」との間に起こった三つの衝突事件である。前回その概略を紹介したが、じつはあの概略は中国側の見解である。だから当然「中国側が正しい」ということを「主張」している。エン州事件は軍命によって私服で偵察していた陸軍の川崎享一大尉がスパイ容疑で北軍の兵士に捕らえられた、というものだが、スパイ容疑というのは当然の話なのである、なぜなら私服だったのだから。
このあたりは日本人の常識に欠けている部分だが、戦争というのは近代においては必ず軍人同士でやるものであり、一般市民は巻き込んではならないというルールがある。そのために、軍人は一目で一般市民とは違うことが明確にわかる軍服を着用(その余裕が無い場合は、ウクライナのゼレンスキー大統領のように胸に軍務中であることを示す標章をつけるなど)しなければならない。