私服で敵地に潜入するというのは、スパイ行為というルール違反になる。問答無用で銃殺されても文句は言えない。それが、しばらく監禁されたものの結果的には無事に帰ってきた。取り調べ中は当然監禁という形になるからこれは決して不当な扱いとは言えず、むしろ寛大な措置で北軍に感謝してもいいぐらいのものなのである。
その次の漢口事件も、やはり偵察中の西村彦馬少尉が北軍将校に正体を見破られ捕まるまいと相手の上腕部を短刀で刺して逃げようとしたので、北軍兵士たちに取り押さえられしばらく監禁されたというものである。中国側の主張では先に凶器をふるったのは西村少尉のほうだから、それが事実なら北軍将校や兵士は自己防衛のため少尉を殺してもいい。それが国際法上のルールとも言えるのだが、北軍つまり袁世凱は少尉を殺害せず処刑もせず送り返してくれた。
外交上の常識から言うなら、日本政府は「袁世凱政権の寛大なる処置に深く感謝する」と声明を発表してもおかしくないところである。もちろん、もうお気づきだろうが日本側は袁世凱政権の態度を非難した。正確に言えば、日本政府は格別にことを荒立てる意向は示さなかったが、世論が激高した。そうなった理由もおわかりだろう。新聞が中国側の主張とはまったく反対の報道をしたからである。
一九一三年(大正2)九月六日付の『東京朝日新聞』は、この二つの事件をまとめて次のように報じている。なお、事件の起こった順番はエン州、次いで漢口なのだが、この記事では順番が逆になっている。当時のマスコミは漢口事件のほうがより重大だと考えたようだ。見出しはまず「帝國軍人凌辱事件」というセンセーショナルなものであり、「最近の二怪事實」「西村少尉事件眞相」という小見出しが記事の本文へと導く。内容は次のようなものだ。
〈△少尉麭圍さる 八月十一日午後六時漢口派遣隊附歩兵少尉西村彦馬は兵一名を伴ひ江岸停車場附近を散歩し同地駐屯の支那軍中の日本留學生出身將校を訪問すべく宿營地に至りたるに言語通ぜず要領を得ざりしより其の歩哨の指圖する儘轉じて停車場構内に赴き共同椅子に休憩せんとする際普通の支那服を着けたるもの(後に將校たりしを知る)の合圖と共に附近にありし三十四五名の支那兵は突然同少尉を麭圍して身體檢査を行はんとせるものゝ如くなりしが彼等に猜疑を抱かしむべき何等の懸念なかりし同少尉は敢て抵抗を試むる事なく暫く彼等の爲すが儘に委ねしに〉
現代語訳するまでも無いと思うが、要するに少尉は別にやましいところはなにも無いので、あえて抵抗せず相手のするがままに任せたということで、ところが調子に乗った北軍兵士は次のような行動に出た。
〈彼等は直ちに軍帽軍衣を剥ぎ指揮刀を奪ひに無法にも少尉を地上に押倒し手を以て打ち靴を以て蹴り多數の打撲傷さへ與え尚軍袴及び長靴を脱せしめ同樣の暴行を受けたる同行兵と共に之を停車場内の支柱に縛し衆人の觀覽に供する事約十分の後講舍内の一室に導き高く柱に吊し官姓名並に哨舎附近に來れる理由を詰問する事約一時間にして漸く腰掛に坐臥する事を許せしも尚縛を解かず午後十時頃漢口鎭守使參謀長張厚森の來るに及び始めて縛を解き同參謀長の率ゐる數名の支那兵により小蒸氣船にて鎮守使杜錫鈞の公館に護送されたり〉
ちなみに、軍袴とはいわゆるズボンのことなのだが、問題はどちらが先に手を出したかについて双方の見解がまったく異なっていることだ。つまり、どちらに多くの非があるかなのだが、この点についてはもうひとつエン州事件も含めて次回詳細に検討しよう。そしてもう一つの重大なポイントは、果たして日本の新聞報道が事実とは違うことを報じて、民衆を扇動していたかということである。
(1381回に続く)
【プロフィール】
井沢元彦(いざわ・もとひこ)/作家。1954年愛知県生まれ。早稲田大学法学部卒。TBS報道局記者時代の1980年に、『猿丸幻視行』で第26回江戸川乱歩賞を受賞、歴史推理小説に独自の世界を拓く。本連載をまとめた『逆説の日本史』シリーズのほか、『天皇になろうとした将軍』『「言霊の国」解体新書』など著書多数。現在は執筆活動以外にも活躍の場を広げ、YouTubeチャンネル「井沢元彦の逆説チャンネル」にて動画コンテンツも無料配信中。
※週刊ポスト2023年5月26日号