父のロバートさん(NHKの公式Xより)
「なんという日でしょう」
日本が高度経済成長をひた走る中、「父親不在」の母ひとり子ひとりの生活は困窮を極めた。
「スエ子さんと草刈さんは、四畳半一間の部屋を間借りして生活していました。スエ子さんは雑貨問屋で毎日夜遅くまで働き、空いた時間には家政婦の仕事を掛け持ち。当時は“ハーフ”の子が珍しく、偏見もあった時代。ましてや草刈さんは、父親が戦時中に敵だったアメリカ人ですから、周囲から心無い言葉を投げかけられることもありました。愛する息子を偏見から守りながら、スエ子さんは必死に草刈さんを育てたそうです」(前出・芸能記者)
幼心に母の苦労を感じていた草刈は、中学生になると家計を助けるために新聞配達のアルバイトを始めた。中学卒業後は定時制高校に通いながらセールスマンの仕事をしていたが、知人からのすすめをきっかけにモデルの道に進むことを決意した。東京で成功して、母を楽にさせてあげたい、その一心だった。
17才で上京、資生堂のCMに起用されて大ブレークを果たした。その後は俳優としても大活躍。数々の作品で主演を務め、「二枚目俳優」としての地位を確立した。その後、スエ子さんを福岡から東京に呼び寄せ、再び母子で一緒に暮らすようになった。
だが、父の不在は、草刈本人が父となってからも影響を及ぼした。1988年、草刈は36才のときに元女優の悦子夫人と結婚し、1男2女の父となった。父親のいない家庭で育った草刈は、「父親像」に戸惑いを覚えることがあったという。
「お子さんたちが小さかった頃に、草刈さんは仕事のストレスからお子さんたちを怒鳴りつけてしまうことも多々あったそうです。そのたびに自分の未熟さを反省すると同時に、“父親とはどうあるべきなのか”“ぼくの父親ならどう接しただろうか”と考える日もあったそうです」(草刈の知人)
人生も終盤に差し掛かったなかで、知らされた“死んだはずの父の生存”。草刈は番組内で、言葉を選びながらこう感想を口にした。
「なんという日でしょう。本当に今日は幸せです。子供の頃からモヤモヤしていたものが全部明らかになり、こんな幸せはないです」
だが実際は、うれしさと同時に怒りにも似た感情が湧き上がっていたのだという。
「父親がいなかったことで、草刈さんとスエ子さんが言い尽くせぬ苦労をしたことは事実です。“父親が生きていれば”と、考えた日も多かったといいます。そのたびに草刈さんは“父は戦死したのだから仕方ない”と割り切ってきました。それなのに実は父は死んでいなくて、身重の母を日本に残して自分は違う女性と結婚していたわけです。このことは父が亡くなる3年前の2010年に他界した母も知らなかったはず。
衝撃の事実を知り、裏切られたという思いもあったのでしょう。もちろん、父親が生きていたことや彼の人生を知れたことはうれしかったのでしょうが……心の整理がつかない部分もあるようです」(前出・草刈の知人)
番組終盤、草刈が渡米し、ロバートさんの親族と対面する映像が流れた。その様子はあらためて「特別編」として放送されるという。70年目の真実を、草刈はどう整理するのだろうか。
※女性セブン2023年9月7日号