──そういう苦しい状態だったというのは、映画を観てもわかりませんでした。40分ほどあるクライマックスでは、村人が徐々に狂気を帯びていって、博士が演じた長谷川も行商団の男性を日本刀で……。
あのシーンは、これは演技なんだとわかっていても、こんなにも罪悪感を感じるんだと思いました。今もトラウマが残るほどです。演じただけの自分ですらこうなのに、実際にそういうことをしてしまった村人たちは、どんな気持ちだったのか。
この映画はヤクザ映画のような悪いやつが悪いやつを残虐に殺す映画ではない。普段、ごく普通の善良な人たちが、ごく普通の善良な人たちを虐殺する映画です。人間の狂気、社会の狂気を深く描いています。観客の方もその“痛み”を共有すると思います。
在郷軍人の役をはるかに遠い自分が演じる意味
──博士が演じた長谷川秀吉は、在郷軍人会の威光を笠に着て、異質なものを平気で差別する嫌な人間ですよね。
あの長谷川という人物は、誰もが思うようにボクも大嫌いです。村社会のイビツさ、軍国主義のダメなところが凝縮されている。しかし、ただ単純に嫌なヤツだけではない。内務省から「村を守れ」という通達が来て、責任感みたいなものもあった。軍人の上下関係に気をつかったり仲間内で強がって見せたりすることで、引くに引けなくなってしまう。小さな社会のごくごく普通の人なのかもしれない。完成した映画を観たら、人間の「善良」と「残虐」を結ぶ重要な役でした。
──「大嫌いな人物」を演じるとわかったときはどう思いましたか。
森監督から電話で「博士の思想とは正反対なんだけど……こういう役で出てほしい」というオファーを受けたんですが、そのときはなぜ自分なのか意図がよくわからなかった。シナリオを読んで「なるほど」と得心しました。
在郷軍人会の分会長と聞くと、マッチョで恰幅がいい人物像を思い浮かべる。見た目も背格好も、さらには思想的にもはるかに遠い自分が演じれば、虚勢を張っている感じが自ずと出るに違いない。悪役ではあるけれど「おいしい」と思いました。
かつ、人生において影響を受け続けている森達也氏が初めて監督する実写映画のフイルムに自分の姿を刻めるのは、またとないチャンスです。企画を聞いたときは、題材が題材なだけに役者が集まるのか一瞬危惧しましたが杞憂でした。結果的にキャスティングが豪華すぎるので自分にはおそれ多いほどですが、監督がボクを思い浮かべてオファーしてもらえて光栄です。
この凄惨な事件は、けっして「過去の話」ではない
──映画では、いろんな差別が複層的に描かれています。そこに国家を頂点とした権力構造や思想の弾圧、村社会の同調圧力、ジャーナリズムの役割とは何かという問題がからんでくる。結局、なぜ行商団の人たちは殺されなければならなかったんでしょうか。
難しい質問ですね。讃岐からやってきた行商団は、被差別部落の人たちでした。自分たちも差別される側でありながら、朝鮮人に差別の目を向けたりもする。当時、日本は朝鮮を弾圧していて、「朝鮮人に仕返しされるかもしれない」と恐れる気持ちもあった。そこに未曾有の大災害が起こって、みんなが浮足立った。政府や警察が主導して「朝鮮人が井戸に毒を入れた」などのデマを流していたという話もあります。
直接的には、村人の差別意識や集団心理や煽られた恐怖心が引き金になったかもしれない。背景にあるのは、群れを作る人間の弱さじゃないでしょうか。自分は「正しい側」「強い側」「多数派」にいたい、ある種の優越感で堂々と少数派の誰かを攻撃したい……。そういう気持ちは、100年前も、今の世の中でも、とくにネットにもまん延しています。この事件は、けっして「過去の話」ではありません。