2020年、突如世界を襲った新型コロナウイルスの感染拡大は当然のごとく藤田さんにも影響を及ぼした。コンサートが当日になって急に中止となり、着る予定だった衣装や譜面をながめて呆然としたこともあったという。その中で、毎日のように耳にしたフレーズが「不要不急を排除する」だ。中でもコンサートやライブの公演などは、真っ先にやり玉にあげられた。
「確かに音楽というのは『不要不急』でしょうね。私の音楽を聴くために、感染の危機にさらされる方がいらっしゃるくらいであれば、やらなくていいと思っている。だけど神様が与えてくれた“音楽”という娯楽を『必要ない』の一言で切り捨てるのは、申し訳ない気持ちにもなります。
ただ、コロナ禍の前はスケジュールにも時間にも追われて、準備が充分でないままコンサートをしていた時期もあって。だから当時、時間ができたからには、これまで出来なかったことをやってみようと思って毎日新しい曲を譜読みしてみたり、右利きなのに家事も文字を書くのも、日常生活を全部左手を使って過ごしてみたり……」
聞くと、「左利き生活」は藤田さんの愛読書である漫画『ドカベン』に登場するピアニストの人気キャラクター・殿馬一人に由来するのだという。
「ハイジャック犯に右腕を撃ち抜かれて、ピンチを迎えるはずが、左手でボールを制御してチームを勝利に導くんです。その時に、殿馬が『ピアニストは両手が使えるんだよ』と言うのを読んで、『そうなのか!』と思って……(笑い)」
旅の記憶も、これまで読んだ本や漫画も、すべての経験が演奏に生きている──そう話す藤田さんの演奏は、これからも輝きに満ちた新鮮な音として世界を魅了するだろう。
【プロフィール】
藤田真央(ふじた・まお)/1998年、東京都生まれ。2017年に第27回クララ・ハスキル国際ピアノ・コンクール優勝、2019年にチャイコフスキー国際コンクールで第2位を受賞。2023年1月、カーネギー・ホールにてホール主催のソロ・リサイタルデビューを果たし、現在はベルリンを拠点に世界中でコンサートを行う。初の著作『指先から旅をする』(文藝春秋社)を12月6日に上梓。
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