鳥羽潤さん(2000年)
「その頃はオヤジががんになってしまったので、和歌山の地元へ戻ってた頃かな。自分で勝手に、親との関係を見つめ直したいな、と思ったんです。かといって、何ができたわけでもないんですけど。
実は、僕が両親と暮らしていたのは、僕が2歳の頃まで。それからは兄貴と一緒に、祖父母に育ててもらったんです。両親には両親の事情があって。僕ら兄弟は祖父母にかわいがってもらったし、両親とも仲が良いので幸せな子ども時代だったんですけど、『まだ親孝行を何もしてないな』って。それで一時的に、地元へ戻っていました。
オヤジは僕がこの世界に入るオーディションのとき、やる気のない僕に『おまえが他人様のお金で東京へ行ける機会なんて、この先そんなにないぞ』と言って、最終の東京会場へ行くよう背中を押してくれたんです」
幸い、父親の手術は成功。術後5年を過ぎ寛解したという。
役者業「断る理由はない」
“空白期間”について語ってくれた鳥羽さん
映画でデビューした鳥羽さんは、やはり映画へのこだわりが強いのだろうか。
「うまく言えないんですけど、映画って枯れた花をも美しく感じさせるような世界だと思うんですよね。作り込んだ芝居をしなくても、ナチュラルな僕の延長線上でできるんじゃないかな、だから僕に合っているな、と考えていた時期もありました。広い絵で撮ってくれますし。
でも、今はこだわりはありません。必要とされるなら、何にでも出ていきたい。“表現”をさせてもらえる人でありたい、と思っています」
俳優だけでなく、1999年にはソロ歌手としてデビュー。その後、デジタルラウド系バンド「Razhead Modic」を結成し、ボーカル兼ギターとして活動するなど音楽活動もしてきた。
「バンドは高校時代もやっていて、デビューしてからはバンドを2度結成しました。でも、メンバーが抜けたり加入したり、ひとつにまとまって続けていくのは難しかったです。今は全然やっていません。もうやりたくないわけじゃなくて、模索中ですね。
表現という意味では、Tシャツや帽子など服を作ったりもするんですよ。昔はファッションがすごい好きだったので、絵の上手な兄と一緒に、20歳の頃から『自分がこんなのがほしいな』と思うものを作ってきました。でも、自分では使わずに友人にあげたりするんです。出来上がったら、もう満足しちゃって(笑)。
いろいろやってきましたけど、一番やりたいのは役者。声優やラジオの朗読もぜひ。断る理由はないです」
役者業への思いは熱い。