『八月の母』と対を成すような本作の母親像は、『ぼくたちの家族』の執筆動機ともなった母・美知子さん(2013年没)との対話から生まれたものだという。
「『八月』が母性という縛りを否定する話だったとすれば、今回は母ミチコと徹底的に喋り倒した感じなんですよ。『こういう時、あなたならどうします?』みたいに。すると結局、彼女を支えていたのは純然たる愛だったことがわかり、そこからは母性を肯定も否定もなく、ただそこに在るものとして描いてみたいと思った。
舞台を大阪にしたのも、横浜の桐蔭学園の母親でもあんなに苦しんでいたのに、もっと強烈なお母ちゃんがいっぱいいそうな強豪揃いの場所に、しかもヨソ者で女親だけの菜々子を置くとどうなるかを書いてみたかったから。
僕はここ数年、登場人物全員の外伝が書けるかっていう決め事を自分に課していて、補欠や相手チームや試合をスタンドで見守るしかない母親達の物語だって、絶対あるはずなんです」
シニアの全国大会で希望学園の〈佐伯豪介〉監督に声をかけられ、創部10年目での甲子園出場という夢を東淀シニアの〈西岡蓮〉らと追うことにした航太郎の入寮前日。菜々子は食卓に彼の好物をずらりと並べ、いつも聞き分けの良すぎる息子が唯一譲らない〈炊きたての白いご飯〉と豚汁も用意した上で、泣いてばかりいた。〈今日までの当たり前が、明日から当たり前じゃなくなる〉〈下手をすれば本当にこれが最後の「当たり前」なのかもしれない〉
「実は今回、日本中の常連校のお母さん方に20人近く、数珠繋ぎ的に取材できたんですけど、その時も皆さん、人生で一番淋しかったのが入寮の時だと言っていて、やっとこの話を訊きに来てくれたって感じだった。
僕は正直、もっと警戒されるかと思ったんですけど、実際は逆で、そういう気持ちを汲んだ物語すら存在しなかったんだな、彼女達に寄り添える物語にしたいなと、書きながら思っていました」