誰かを裁くために闘うわけじゃない
幸い大阪でもいい職場や、同じ部員を息子に持つシングルマザーの親友〈香澄〉にも恵まれ、安心したのも束の間。菜々子は入部早々冷たくなった監督の態度や、1期生以来の伝統だという〈父母会心得〉に縛られる役員達、何より息子の痩せ方にショックを受ける。が、事情を聞きたくとも寮には電話もメールも禁止。父母会の用事で顔を合わせても私語厳禁が心得なのだ。
実はこの時、1年生ながらベンチ入りした航太郎は肘を痛め、後に長期離脱を強いられるのだが、むしろモヤモヤするのはケガ以外。伝統の名の下に裏金が飛びかう異常な世界で、これは彼女達がどう「高校球児の母親像」を自ら獲得していくかという物語でもある。
「テレビでも感謝を述べるイイ息子と涙する母親とか、記号しか求めないでしょう。そんなわけあるかって(笑)。そこはちゃんと息吹かせたかったし、不祥事の話も極力リアルには書いていて、それがこの国を覆う空気の正体でもあるんですけど、別に菜々子は誰かを裁くために闘ってるわけじゃない。
それこそ航太郎が試合に出ない方がホッとする感じはうちの母親がそう言ってたんですよ。僕は中3までチームの中心にいたから、怖くて仕方がなかったって。もし女の子を産んでいたら、全然違う人生だったろうなと、今になって思います」
本書では10期生の成長や試合の機微までが活写され、心揺さぶられること必至。それでいて佐伯の〈自分だけが限界を定めてしまうというのはよくある話です〉という台詞など、従来作との違いも感じさせる。
「つまり僕には親や世間が押し付ける枠組みの無意味さを伝えたい気持ちがある一方、諦めないことの先にある何かを提示する時期に自分が来ている気もして。そんなこと、今までは口に出したこともなかったんですけどね。
でも諦めずに書いてきたからこんなエラそうな話もできるわけで、東京生活をあと4年乗り切ったら次は南米に行きたいなって。それでチリに住んで、スペイン語で日本が舞台の小説を書くのが、今の目標です」
野球の好き嫌いや母親か否かも超えて、ただ目から水が滂沱と流れ、その意味を問うこと自体が無意味に思えてくる、どんな記号やレッテルでも括りたくない、人と人が生きている小説だ。
【プロフィール】
早見和真(はやみ・かずまさ)/1977年神奈川県生まれ。國學院大學文学部在学中からライターとして活躍し、2008年『ひゃくはち』で小説デビュー。2014年刊行の『イノセント・デイズ』で日本推理作家協会賞。2019年の『ザ・ロイヤルファミリー』でJRA賞馬事文化賞と山本周五郎賞。著書は他に『ぼくたちの家族』『95』『小説王』『店長がバカすぎて』『笑うマトリョーシカ』『八月の母』、絵本『かなしきデブ猫ちゃん』やノンフィクション『あの夏の正解』等。映画化作品も多数。184cm、67kg、A型。
構成/橋本紀子 撮影/国府田利光
※週刊ポスト2024年3月29日号