ここであらためて、大隈の半生を振り返ってみよう。一八三八年、大隈は佐賀藩士の家に生まれた。一八三八年と言えば、明治維新の三十年前の天保九年である。そして明治維新の志士として活躍。一八七〇年(明治3)に参議・大蔵大輔に抜擢され、西郷隆盛、次いで大久保利通の下で地租改正を進め殖産興業を推進した。しかし、その後に北海道開拓使官有物払下げに反対したため中央政界を追放された(明治十四年の政変)。
以後、日本の立憲政治、政党政治の確立をめざし、東京専門学校(のちの早稲田大学)を創立した。一八九八年(明治31)、板垣退助とともに自由党と進歩党を合同させて憲政党を結成し、最初の政党内閣である第一次大隈内閣(通称「隈板内閣」)を成立させたが、この内閣はわずか四か月で潰され、その後失意のうちに大隈は一時政界から引退した。しかし、大正に入って桂太郎内閣打倒の憲政擁護運動が高まると政界に復帰し、一九一四年(大正3)、第二次大隈内閣を組織して内務大臣を兼任した……。
おわかりだろう。じつは大隈は政党政治の確立をめざしながら一度は挫折し、明治の後半期には政界から引退していたのだ。いわば「過去の人」だったわけだが、シーメンス事件で山本権兵衛内閣が崩壊するという思いがけない事態のなかで、隈板内閣(第1次大隈内閣)以来十六年ぶりに「お鉢がまわってきた」のである。じつはこのとき七十六歳。現代でも七十六歳は高齢だが、いまより平均寿命が遥かに短い大正時代では「いつ死んでもおかしくない年齢」(実際には83歳まで生きた)である。
そんな高齢でありながら首相を引き受けたのは、政党政治の確立という生涯の理想を実現する最後のチャンスと考えたからだろう。ところが現状は「選挙でもっとも支持された政党の首班が内閣総理大臣となる」では無く、「内閣が交代すべき時は総理大臣にふさわしい人間を元老が天皇に推薦する」である。大隈が理想とした「二大政党が政権を争い切磋琢磨して腐敗を防ぎ、よりよい政治を実現する」には程遠い。そもそも大隈自身、元老井上馨の推薦で「総理になれた」。そこで大隈はこれはという「若手」を選んで、政党政治確立の夢を託そうとした。そこで選ばれたのが加藤高明だったのである。
性格的には「頑固一徹」
ここで加藤の半生も見ておこう。
〈加藤高明 かとうたかあき[1860―1926]
明治・大正時代の官僚出身の政党政治家。安政(あんせい)7年1月3日尾張(おわり)国(愛知県)に生まれる。本名服部総吉(はっとりふさきち)。1872年(明治5)加藤家の養子となり、1874年高明と改名した。1881年東京大学法学部卒業と同時に三菱(みつびし)本社へ入社、社長岩崎弥太郎(いわさきやたろう)に認められ、1885年本社副支配人となり、翌年弥太郎の長女春治(はるじ)と結婚した。1887年官界に転じ公使館書記官、大隈重信(おおくましげのぶ)外相秘書官、大蔵省主税局長などを経て、1894年駐英公使として活躍、1900年(明治33)第四次伊藤博文(いとうひろぶみ)内閣の外相に就任した。1901年外相辞任後政界に転じ、(中略)1906年第一次西園寺公望(さいおんじきんもち)内閣の外相、1909年駐英特命全権大使に就任、1911年には日英通商航海条約改定と日英同盟改定に調印し、功により男爵を授けられた。1913年(大正2)第三次桂太郎(かつらたろう)内閣の外相に就任、第一次護憲運動のさなかに立憲同志会の創立に参画し、桂の死後同党の総理に就任した。(以下略)〉
(『日本大百科全書〈ニッポニカ〉』小学館刊 項目執筆者木坂順一郎)
大隈が加藤を後継者と見込んだのは、大隈内閣成立直前に当時最大級の政党であった立憲同志会の総理(代表)であったこともあるが、なによりもイギリスとの関係が深く英語も堪能で、大隈の理想とするイギリス風の政党政治を実現するには最適の人材だと思ったからだろう。それは同時に、英米との協調路線を進めるということでもあった。