また加藤は大隈の秘書官を務めたこともあり、三菱財閥からの金銭的バックアップも期待できる。これは大きい。「政治にはカネがかかる」からだ。最近、自民党のパーティー券の「活用」による裏金作りが問題になっているが、そもそもなぜ裏金を作る必要があるのかと言えば、その大きな理由の一つに政治家にタカる有権者がいるからだ。
このことに言及せずに政治家ばかりを追及するのは、私は報道のやり方としてフェアでは無いなと思っている。そして現代ですらそうなのだから、大正時代はもっとひどかった。わかりやすく言えば、自分の一票をカネで売る連中も多くいたということだ。民主主義の大原則は一人一票なのだから仕方が無いといえば仕方が無いが、そうしたなかで政権を取るためにはやはりカネが要る。
「すべてのデータを知っている」われわれから見れば、イギリス風の政党政治を確立する人材としては加藤高明以外に同年代の犬養毅(1855年生まれ)、尾崎行雄(1858年生まれ)あたりも候補として浮かぶが、大隈にとっては気心も知れているしなによりイギリスとの太いパイプを持っていることが、「加藤高明しかいない」と大隈が決断し「少なくとも外交については一任する」とした理由だろう。
それに政党政治には必ず「野党」が必要だが、政権与党さえ確立すれば自然に野党も確立する。だから犬養や尾崎にはその役目を担ってもらえばいい。そういう意味では日本の政界は人材豊富で政党政治実現の機は熟したとも言える。大隈は、いまが絶好のチャンスだと考えたのだろう。
ところが、ほかならぬ加藤高明の性格には少々問題があった。前出の百科事典の「加藤高明」の項目は、次の一文で締めくくられている。〈性格的には「傲岸(ごうがん)」「頑固一徹」「剛腹」で有名であった〉。「傲岸」はともかく、「頑固一徹」は政治家として必要な資質ではある。「信念」や「原理原則」を絶対に曲げない、ということだからだ。
ところがこのとき、つまりここ数回にわたって論じている「対華二十一箇条要求」問題については、この性格が裏目に出た。政党政治の確立のためには元老の政治への「口出し」を排除すべきという「信念」を抱いていた加藤は、山県の意見を完全に無視すべきだと考えていたのだ。
しかし、他ならぬ大隈首相も元老井上馨の推薦で実現したように、この時代の政治家は重要案件を必ず元老のところに持ち込み了承を得るのが慣例となっていた。陸軍に関連する案件は当然元老山県に報告し、了承を得なければならない。ところが加藤はそこを巧みに「処理」し、山県の意向を無視することに成功した。具体的には、閣議決定した素案の「対華十七箇条」を山県に報告した際、まだ検討の余地があると説明したのだ。