聖書を読む姿と「孤独の影」
そして、野口の胸に刻まれているもう一つの姿が、「聖書を携える青年」というものだ。
1989年、セナはプロストと再びチャンピオン争いを繰り広げた。第15戦の日本グランプリの際、鈴鹿サーキットのシケインで二人のマシンは接触。プロストはリタイアし、セナはマシンを発進させるも「シケイン不通過」によって失格となった。
「チャンピオンの座を失ったセナの様子は、一時期は引退を口にするほど痛々しいものでした。その頃から彼は持ち前だった明るさを失い、孤独の影を色濃く持つようになった。レース前、聖書を静かに読む姿は傷ついた青年そのものでした」
翌年もセナとプロストの因縁は続いた。同じ日本グランプリでは14万人の観客が固唾を飲んで見守るなか、スタート直後の1コーナーで二人がまたしても接触。後味の悪い結末となったが、セナは二度目のワールドチャンピオンを獲得する。「セナ・プロ対決」と呼ばれたそのライバル関係は、日本でのF1人気の大きな背景の一つだった。
ホンダのF1撤退で目に涙を浮かべた
フジテレビが放映権を獲得し、全戦をほぼリアルタイムで放送し始めた1987年以来、過熱の一途をたどった日本のF1ブームについて、野口はこう述懐する。
「ヨーロッパのレースを回って来ても、日本のF1ファンの熱狂には驚くものがありました。あまりの人気にセナを周囲から隠す必要があり、浦安のホテルからヘリコプターで鈴鹿サーキットや仕事先を往復した。東京の料亭で有力な政治家が、女将に『昨日はセナが勝ったね』と話していたと聞いたこともある。それくらい、F1とセナの人気は広く浸透していたんですね」
ホンダがF1からの撤退を発表するのは1992年。マクラーレン・ホンダで三度のチャンピオンに輝いたセナは、イタリアのモンツァサーキットで撤退について聞かれた際、「ホンダF1チームの仲間たちと一緒にドライブできたことを誇りに感じている」と語った。
セナは事前に撤退の話を聞いていたものの、そのとき様々な感情が去来したのだろう、涙を浮かべてカメラの前から走り去った。
「セナはホンダと日本を本当に愛していました。亡くなって30年が過ぎましたが、当時のF1ブームといえばマクラーレン・ホンダのイメージが強いのは、それだけセナの存在が大きかったからだと言えるでしょう」
(後編へ続く)
【プロフィール】
野口義修(のぐち・よしのぶ)/1952年生まれ。元ホンダ広報渉外マネージャー。1976年ホンダ入社後、海外営業部、モーターレクリエーション推進本部、国内四輪営業本部などを歴任。1983年から1992年までF1業務を担当し、1988年から1992年のマクラーレン・ホンダ全盛期にイギリスに駐在してチーム運営に携わる。2012年に定年退職し、コンサルティング業務に従事。著書に『F1ビジネス戦記 ホンダ「最強」時代の真実』(集英社新書より電子書籍発売中)。
取材・文/稲泉連
※週刊ポスト2024年4月5日号