1973年の『平凡パンチ』に掲載され、同誌が150万部近い爆発的な売り上げとなった麻田奈美の「林檎ヌード」。日本のグラビア史にも残る伝説の写真で麻田奈美ブームは盛り上がり、ブラジルやハワイ、メキシコなど海外でのロケも敢行された。わずか6年間のモデル活動とその後の人生を、本人が約半世紀ぶりの“顔出し”で振り返る。【前後編の後編。前編からつづく】
1973年4月、麻田奈美さんはブラジルでの撮影から帰ると、写真家・青柳陽一さんが岩魚釣りでよく訪れていた奥鬼怒温泉郷「加仁湯」へ。1973年にはレコードデビューも経験した。その後、麻田さんが急激に太ってしまったため、1975年はほぼ1年間撮影休止となった。努力のすえ減量を果たして1976年秋に撮影を再開。編集部の依頼で伊豆・吉奈温泉で「伊豆の踊子」の衣装で撮影した。
1977年1月には奥日光・湯元温泉で零下10数度の雪原が舞台となったが、麻田さんは撮影後の入浴を想像しながら奮闘した。青柳さんと麻田さんは兄と妹のような信頼関係を築き、あうんの呼吸で撮りつづけていった。撮影した写真はその都度平凡パンチに掲載され、大きな反響を呼んだ。
1977年3月にはメキシコロケに飛んだ。麻田さんが言う。
「私の本名はマヤコというのですが、子供の頃からマヤ文明に憧れていたんです。沖縄で撮影した写真のゲラ校正で青柳さんと一緒に編集部にお邪魔したら、編集長に『どこに行きたい?』と聞かれたので、『メキシコのマヤのピラミッドが見たい』と答えたら本当に実現して。夢が叶ってすごくうれしかったです」
メキシコの帰路にはハワイにも立ち寄って撮影した。青柳さんは「ハダカのモデルを撮っている気がしなかった」と語る。
「コナの埠頭近くで撮影した時、観光客がいても『ここで撮る』と私が言うと、奈美は何のためらいもなく脱いでくれました。着ていても脱いでいても同じ表情で撮れるんです。最高の宝石を撮っている気分でした」(青柳さん)
麻田さんもうなずく。
「カメラを向けられると“麻田奈美”に切り替わるんです。周りに何十人も人がいても、特に恥ずかしくはありませんでした。青柳さんの撮影は短時間でパパッと終わりますし」(麻田さん)