山県の評価は「少し気の毒」
再三述べているように、私は山県有朋という人物があまり好きでは無いし高く評価もしていないが、このあたりはちょっと気の毒かなという気もする。このあたりというのは、山県は「二十一箇条」を修正できなかった加藤高明に失望し、「こんな人間には日本を任せられない」とばかりに加藤内閣実現絶対阻止に動いた前後のことだ。
大隈はイギリス風の政党政治を実現するためには「加藤しかいない」と、まさに老いの一徹で思い込んでいたので、なんとか自分の内閣の後には加藤内閣を実現しようと考えていた。しかしまさに山県も老いの一徹でそれを絶対阻止しようとし、この少し先の話になるが、まんまと成功したのである。それは政党内閣実現の妨害になったことは間違いない。
そこで山県は、「第一次世界大戦参戦を決断し、見事にドイツに勝利し、あの憎っくき袁世凱に一泡吹かせ日本の中国権益を拡張し、さらに空前の好景気をもたらした大隈首相が後継者に指名した加藤外相、しかも『二十一箇条』の立役者でもあった加藤の内閣実現を、旧来の元老政治で阻止した悪人」ということにされてしまったのである。
もし山県の「二十一箇条」に対する見解が詳しく報道されていたら、その後の展開も違っていたかもしれない。この後、大隈と山県は奇しくも同じ一九二二年(大正11)に約二十日違いで生涯を終えるのだが、先に挙行された大隈の葬儀は国民葬と名付けられ日比谷公園で行なわれ、会葬者は約三十万人にのぼったとも言われる。しかも参列しきれない人多数が葬列を沿道で見送った。
それに対し山県の葬儀は正式な国葬だったが、参列する者はきわめて少なく盛り上がりに欠け、新聞は「国民葬」から「民」の字を取ると「国葬」になることから、山県の葬儀を「民抜きの国葬」と皮肉った。
注意すべきは、戦前の国葬は二年前に行なわれた安倍晋三元首相の国葬と違って、一般民衆の参加も認められていたことである。ただし、ドレスコードは厳しく燕尾服でなければならないなどのルールがあったので、参加者は限定された。一方、大隈の国民葬は服装が原則自由であったため大差がついたのだが、山県の政治姿勢にはなにかと問題があったとは言え、少なくとも「二十一箇条」に関する姿勢は山県の方がまともだったのだから、この差は不公平の感がする。「少し気の毒」というのはそういうことだが、これが「人気」というものの本質かもしれない。
人気と言えば、大隈ほど大衆に人気のあった政治家は日本史上でも珍しいだろう。稀有の存在と言ってもいい。その人気の秘密の一つに、パフォーマンス好きということがあったかもしれない。前にも紹介したように日本初の野球始球式をやったのも大隈なのだが、この「二十一箇条」を中国に要求した一九一五年(大正4)には、首相としての大隈に一世一代の晴れ舞台が用意されていた。それは、京都御所で行なわれた大正天皇の即位式であった。大正三年に予定されていたのだが、明治天皇の妃で大正天皇の「義母」でもある昭憲皇太后がこの年亡くなったため、喪が明ける大正四年まで延期されていたのだが、問題はこの儀式における首相の役割が次のようなものであったことだ。
〈大隈は紫宸殿正面の階段である南階(一八段)を上がり、高御座にいる天皇に向かって奉詞を申上げ、万歳を三唱した後、後ろ向きに南階を南庭まで下りてこなくてはならない。〉
(引用前掲書)