普通の人間ならまったく問題無い動作だが、大隈は過去に国家主義者に爆弾をぶつけられ右足を失っている(『逆説の日本史 第24巻 明治躍進編』参照)。つまり、片足が義足の状態でこの動作をこなすのはきわめて困難だ。義足も現代のように精巧なものでは無いし、服装も洋装では無く伝統の衣冠束帯である。足を踏み外しでもしたら仰向けになって転落することになり、儀式をぶち壊すことになるばかりか高齢の大隈にとっては生命の危険もある事態となる。それゆえ一部には、大隈は首相を退任すべきだという意見もあったという。

 いまでは考えられないが、この当時はこうした神聖な儀式に代理を派遣するのはきわめて不敬なことと考えられており、役目を果たせないならいっそのこと辞職すべきだ、ということである。

 だが大隈は、儀式当日事故も無く堂々とこの役目をやり終えた。おそらく、人知れず練習を重ねていたのだろう。失敗を危惧していた民衆は大隈に拍手喝采した。じつは総理大臣として地方遊説を初めて実行したのも大隈だったが、列車で地方を回る大隈の行く先々には聴衆があふれていたという。

 さらに大隈は、大正天皇の大のお気に入りでもあった。君主が世代交代すると前の君主の重臣は疎まれることが多い。これは世界共通の歴史の法則だが、大正天皇はとくに近代的な教育を受けており、古い体制の遺産である元老よりは政党政治の確立をめざす大隈に好意を抱いていた。だからこそ大隈は一念発起し、即位礼を無事勤め上げたのだろう。このことにより天皇との信頼関係はますます深まったようだ。

 そこで話は冒頭の疑問に戻るのだが、天皇にも信頼され袁世凱との対決姿勢も見せていた大隈が、なぜ大陸浪人に襲われたのか。考えれば考えるほど不思議ではないか。

 やはり問題は、というか不満は袁世凱に対する対決姿勢だったろう。つまり「てぬるい」ということだ。結果的にはこの年の六月に袁世凱は四面楚歌のなかで病死するのだが、この正月の時点では皇帝就位計画が一応の成功を収め、「洪憲」元年とし帝政を復活すると叫んでいた。この時代錯誤の計画には、それまで彼に従っていた人間も見切りをつけつつあったことはすでに述べたとおりだ。

 爆弾をぶつけた福田が言いたかったことは、「いまこそ中国における日本の利権を拡大する絶好の好機ではないか、当の中国人さえリーダーの袁世凱を見放しているのに」ということであったろう。その場合「切り札」として使えるかもしれない孫文は、当時日本に亡命していた。そんな有利な状況になぜ手をこまねいているのか、ということだ。このときぶつけた爆弾が不発に終わったのも、当初から計算されていたことではないか。つまり、福田らは大隈を暗殺するのでは無く、叱咤するためにやったことではないかと、私は想像している。

(第1415回へ続く)

【プロフィール】
井沢元彦(いざわ・もとひこ)/作家。1954年愛知県生まれ。早稲田大学法学部卒。TBS報道局記者時代の1980年に、『猿丸幻視行』で第26回江戸川乱歩賞を受賞、歴史推理小説に独自の世界を拓く。本連載をまとめた『逆説の日本史』シリーズのほか、『天皇になろうとした将軍』『「言霊の国」解体新書』など著書多数。現在は執筆活動以外にも活躍の場を広げ、YouTubeチャンネル「井沢元彦の逆説チャンネル」にて動画コンテンツも無料配信中。

※週刊ポスト2024年4月12・19日号

関連記事

トピックス

日米通算200勝を達成したダルビッシュ有(時事通信フォト)
《ダルビッシュ日米通算200勝》日本ハム元監督・梨田昌孝氏が語る「唐揚げの衣を食べない」「左投げで130キロ」秘話、元コーチ・佐藤義則氏は「熱心な野球談義」を証言
NEWSポストセブン
ギャンブル好きだったことでも有名
【徳光和夫が明かす『妻の認知症』】「買い物に行ってくる」と出かけたまま戻らない失踪トラブル…助け合いながら向き合う「日々の困難」
女性セブン
破局報道が出た2人(SNSより)
《井上咲楽“破局スピード報告”の意外な理由》事務所の大先輩二人に「隠し通せなかった嘘」オズワルド畠中との交際2年半でピリオド
NEWSポストセブン
河村勇輝(共同通信)と中森美琴(自身のInstagram)
《フリフリピンクコーデで観戦》バスケ・河村勇輝の「アイドル彼女」に迫る“海外生活”Xデー
NEWSポストセブン
《私の最初の晩餐》中村雅俊、慶応大学に合格した日に母が作った「人生でいちばん豪勢な“くずかけ”」
《私の最初の晩餐》中村雅俊、慶応大学に合格した日に母が作った「人生でいちばん豪勢な“くずかけ”」
女性セブン
『君の名は。』のプロデューサーだった伊藤耕一郎被告(SNSより)
《20人以上の少女が被害》不同意性交容疑の『君の名は。』プロデューサーが繰り返した買春の卑劣手口 「タワマン&スポーツカー」のド派手ライフ
NEWSポストセブン
ポジティブキャラだが涙もろい一面も
【独立から4年】手越祐也が語る涙の理由「一度離れた人も絶対にわかってくれる」「芸能界を変えていくことはずっと抱いてきた目標です」
女性セブン
生島ヒロシの次男・翔(写真左)が高橋一生にそっくりと話題に
《生島ヒロシは「“二生”だね」》次男・生島翔が高橋一生にそっくりと話題に 相撲観戦で間違われたことも、本人は直撃に「御結婚おめでとうございます!」 
NEWSポストセブン
木本慎之介
【全文公開】西城秀樹さんの長男・木本慎之介、歌手デビューへの決意 サッカー選手の夢を諦めて音楽の道へ「パパの歌い方をめちゃくちゃ研究しています」
女性セブン
大谷のサプライズに驚く少年(ドジャース公式Xより)
《元同僚の賭博疑惑も影響なし?》大谷翔平、真美子夫人との“始球式秘話”で好感度爆上がり “夫婦共演”待望論高まる
NEWSポストセブン
中村佳敬容疑者が寵愛していた元社員の秋元宙美(左)、佐武敬子(中央)。同じく社員の鍵井チエ(右)
100億円集金の裏で超エリート保険マンを「神」と崇めた女性幹部2人は「タワマンあてがわれた愛人」警視庁が無登録営業で逮捕 有名企業会長も落ちた「胸を露出し体をすり寄せ……」“夜の営業”手法
NEWSポストセブン
男装の女性、山田よねを演じる女優・土居志央梨(本人のインスタグラムより)
朝ドラ『虎に翼』で“男装のよね”を演じる土居志央梨 恩師・高橋伴明監督が語る、いい作品にするための「潔い覚悟」
週刊ポスト