吉田さんが現在も住んでいる都営住宅
父親は旧逓信省の役人で転勤が多かったといい、きょうだい4人の生まれた所はみんな違った。吉田さんは小学校3年生から高校を卒業するまでは栃木の日光で暮らしており、父親の影響で卓球を行っていた。
「個人戦ではね、県大会まで行ってるんですよ。中学3年の時かな。結構その頃は田舎の学校では有名になってね。県でね、11位かな。負けた相手が準優勝して強豪だったんですよね。高校でもやりました。
勉強はあんまりでしたが、小学校の時は全校生徒を代表して答辞を読んでいましたよ。親父は戦後何年か経って、逓信省を辞めて叔父の会社で働きました。お袋は優秀だったね。新潟から出てきて、やっぱ逓信省に入って。そこで結婚したみたい。お袋はね、先生の資格を持ってたらしくて、結構うるさかったです」
高校を卒業した後は、老舗百貨店の横浜支店で勤務したという。日本経済が右肩上がりで成長する中、華やかな業界に身を置いた。
「1番初めはね、呉服部寝具係の寝具和装部門。簡単に言えば、売り子です。結婚式の布団なんかを注文で作っていました。結果も出して転勤で銀座に移ったんですよ。そこでは食料品の担当でした。合計で百貨店には10年か11年ぐらい勤務しました。そこで、たまたま食料品の取引先の会社からどうだって話があってね。そのハム会社は品川の近くにあってね、そこは製造販売と、レストランもやっていた。なぜか、そのレストランの責任者から、こっち来いと言われたんです。
新宿の歌舞伎町にあったドイツレストランで働いていました。男のほうが少ない職場だから、彼女らしいのはずっといました。親父も呑兵衛でしたが、僕も呑兵衛でした。毎日飲んでましたね。だからね、母親も僕の結婚は諦めていました」