ライフ

【逆説の日本史】フランスが講和会議で「普仏戦争の借り」を返したドイツに対する憎悪

作家の井沢元彦氏による『逆説の日本史』

作家の井沢元彦氏による『逆説の日本史』

 ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。今回は近現代編第十五話「大日本帝国の確立X」、「ベルサイユ体制と国際連盟 その2」をお届けする(第1453回)。

 * * *
 前回紹介したアメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンの「十四ヵ条」、つまり後にベルサイユ体制そして人類初の「超国家組織」である国際連盟(国際連合では無い!)を誕生させるきっかけとなった提言を逐条解説したが、一つだけ分析していない条文があったことにお気づきだろうか?

 それは、「第八条 アルザス・ロレーヌのフランスへの返還」である。この二つの州はフランスとドイツの国境地帯にあり、ちょうど現在のロシア・ウクライナ戦争におけるクリミア半島のように、交戦国で隣接国でもある二か国が共に領有権を主張しているという、戦争の火種とも言うべき厄介な地域であった。

 では、他の条項と違って完全にローカルな問題なのかと言えば、まったく違う。とくにヨーロッパの戦争においては、こうした問題を理解しておかないと歴史の理解がまったく進まない。しかも、日本人にとってきわめて厄介なことに、これに類似する問題が日本史においてはほとんど無い。だが逆に、世界史を知るためにはぜひとも身につけておかねばならない知識でもある。その知識を身につけるにはこの事例が一番ふさわしいので、少し解説しよう。

 じつはこの問題は、「アルザス・ロレーヌ問題」というタイトルで百科事典の一項目にもなっているぐらいの話なのである。

〈アルザス・ロレーヌ問題
アルザスAlsaceとロレーヌLorraineはフランス北東部の地方である。1870-71年の普仏戦争の結果、フランスはベルフォール管区を除くアルザスとロレーヌ北部をドイツに割譲した。この地方はドイツとフランスの接触地帯として軍事的に重要な地位にあり、また鉄鉱、石炭、カリウムなどの資源が豊富であるため、独仏両国の絶えざる係争の地となった。1872年11月1日以前に、フランス国籍を選んだアルザス・ロレーヌ人は15万8000で、フランスやアルジェリアに亡命した。1871年から1914年にかけて、アルザス・ロレーヌ領有問題はフランスの軍事計画と外交政策に重要な意味をもっていた。両地方を失った結果、戦略上の重要性以外に、ドイツがルールの石炭と鉄鉱産地、製鉄・製鋼設備を手に入れたことである。アルザス・ロレーヌ地方の人々は併合に抗議し、国民投票を要求したが拒絶された。1879年に地方政府が認められたというものの、ドイツ帝国政府の代理者が絶対的な権限をもち、地方自治へのあらゆる試みは芽のうちに摘まれた。95年以後、フランス政府は教権反対政策によってアルザス・ロレーヌのカトリック教徒の大多数をドイツから離間させ、ドイツ領内の自治州化をはかった。1911年の新憲法によって自治への道は開かれたが、その政治効果は駐留するドイツ軍によって相殺された。その結果、軍隊と市民の衝突がしばしば起こった。(以下略)〉
(『世界大百科事典』平凡社刊 項目執筆者大嶽幸彦)

 この項目はまだまだ延々と記述が続くのだが、このあたりでやめておこう、そうしないと、この項目だけで今回が終わってしまう。とにかく、両国の因縁が絡まった複雑な場所であることは理解していただけたと思う。この地方は、中世においては共に神聖ローマ帝国の領土であった。前回述べたように、言語や宗教や人種を超越した形でそれを統合するのが「帝国」というものであるが、アルザスの大部分はドイツ語圏だった。

 ストラスブール大学と言えばアルザスにあるノーベル賞受賞者を輩出した名門大学だが、文豪ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテが若くして学んだころは行政的にはフランス領だったが、学内で使われていたのはドイツ語であった。この事実一つとっても、問題のややこしさがわかるだろう。日本にはこういう事例は無い。島国と大陸の違いは、こういうところにある。

 また引用文にもあるように、オットー・フォン・ビスマルクが統一ドイツ以前のプロイセンの宰相だったころ、「普仏戦争」でナポレオン3世に勝った際にフランスから最初に奪ったのが「エルザス・ロートリンゲン」(アルザス・ロレーヌのドイツ語名)だった。さらに、ビスマルクはフランスのベルサイユ宮において、プロイセン王ウィルヘルム1世のドイツ帝国皇帝戴冠式を強行した。

 このあたりは『逆説の日本史 第二十八巻 大正混迷編』で詳述したところだが、思い出していただきたい。この勝利によってドイツは民族の悲願であった統一ドイツを確立した。つまり、普仏戦争(実質的には独仏戦争)は歴史的にもきわめて珍しい、フランスの大惨敗だったのである。フランス人にとってはフランス共和国建国以来の屈辱だった。だからこそ日本陸軍は、当初のフランス方式をやめてドイツ式を採用したのだ。

 またこのとき、後に首相も務め元老となる西園寺公望が留学生としてパリに入り、当時はジャーナリストだったが後にフランス首相となるジョルジュ・クレマンソーと生涯の友となったことも思い出していただけたろうか。

 第一次世界大戦時のフランスの首相は、他ならぬこのクレマンソーであった。じつは大戦末期のフランスは厭戦気分が広がり、このままでは負けるのではないかという危機感が政府当局に芽生えた。そこで当時のレイモン・ポアンカレ大統領は、政敵であり「虎」と呼ばれた剛腕政治家クレマンソーを首相に抜擢した。

関連キーワード

関連記事

トピックス

全米野球記者協会ニューヨーク支部主催のアワードディナーに出席した大谷翔平と、妻・真美子さん(左/時事通信フォト、右/提供:soya0801_mlb)
《真美子さんが座る椅子の背もたれに腕を回し…》大谷翔平が信頼して妻を託す“日系通訳”の素性 “VIPルーム観戦にも同席”“距離が近い”
NEWSポストセブン
司法省がアンドリュー元王子の写真を公開した(写真/Getty Images)
《白シャツ女性に覆いかぶさるように…》エプスタイン・ファイルで新公開されたアンドリュー元王子とみられる人物の“近すぎる距離感の写真” 女性の体を触るカットも
NEWSポストセブン
(時事通信フォト)
【2・8総選挙「大阪1〜10区」の最新情勢】維新離党の前職が出た2区、維新前職vs自民元職vs野党候補の5区で「公明党票」はどう動くか
NEWSポストセブン
なぜ実の姉を自宅で監禁できたのか──
《“お前の足を切って渡すから足を出せ”50代姉を監禁・暴行》「インターホンを押しても出ない」「高級外車が2台」市川陽崇・奈美容疑者夫妻 “恐怖の二世帯住宅”への近隣証言
NEWSポストセブン
東京拘置所(時事通信フォト)
〈今年も一年、生きのびることができました〉前橋スナック銃乱射・小日向将人死刑囚が見せていた最後の姿「顔が腫れぼったく、精神も肉体もボロボロ」《死刑確定後16年で獄中死》
NEWSポストセブン
間違いだらけの議事録は「AIのせい」(写真提供/イメージマート)
《何でもAIに頼る人たち》会社員女性が告白「ケンカの後、彼から送られてきた”彼女の方が悪い”とAIが回答したスクショ」ほどなく破局
NEWSポストセブン
国際ジャーナリスト・落合信彦氏
国際ジャーナリスト・落合信彦氏が予見していた「アメリカが世界の警察官をやめる」「プーチン大統領暴走」の時代 世界の“悪夢”をここまで見通していた
NEWSポストセブン
高市早苗首相(時事通信フォト、2025年10月15日)
《頬がこけているようにも見える》高市早苗首相、働きぶりに心配の声「“休むのは甘え”のような感覚が拭えないのでは」【「働いて働いて」のルーツは元警察官の母親】 
NEWSポストセブン
ジェンダーレスモデルの井手上漠(23)
井手上漠(23)が港区・六本木のラウンジ店に出勤して「役作り」の現在…事務所が明かしたプロ意識と切り開く新境地
NEWSポストセブン
元日に結婚を発表した女優の長澤まさみ(時事通信フォト)
長澤まさみ「カナダ同伴」を決断させた「大親友女優」の存在…『SHOGUN』監督夫との新婚生活は“最高の環境”
NEWSポストセブン
国際ジャーナリスト・落合信彦氏
【訃報】国際ジャーナリスト・落合信彦氏が死去、84歳 独自の視点で国際政治・諜報の世界を活写 
NEWSポストセブン
薬物で急死した中国人インフルエンサー紅紅(左)と交際相手の林子晨容疑者(右)(インスタグラムより)
「口に靴下を詰め、カーテンで手を縛り付けて…」「意識不明の姿をハイ状態で撮影」中国人美女インフルエンサー(26)が薬物で急死、交際相手の男の“謎めいた行動”
NEWSポストセブン