作家の井沢元彦氏による『逆説の日本史』
ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。今回は近現代編第十五話「大日本帝国の確立X」、「ベルサイユ体制と国際連盟 その2」をお届けする(第1453回)。
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前回紹介したアメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンの「十四ヵ条」、つまり後にベルサイユ体制そして人類初の「超国家組織」である国際連盟(国際連合では無い!)を誕生させるきっかけとなった提言を逐条解説したが、一つだけ分析していない条文があったことにお気づきだろうか?
それは、「第八条 アルザス・ロレーヌのフランスへの返還」である。この二つの州はフランスとドイツの国境地帯にあり、ちょうど現在のロシア・ウクライナ戦争におけるクリミア半島のように、交戦国で隣接国でもある二か国が共に領有権を主張しているという、戦争の火種とも言うべき厄介な地域であった。
では、他の条項と違って完全にローカルな問題なのかと言えば、まったく違う。とくにヨーロッパの戦争においては、こうした問題を理解しておかないと歴史の理解がまったく進まない。しかも、日本人にとってきわめて厄介なことに、これに類似する問題が日本史においてはほとんど無い。だが逆に、世界史を知るためにはぜひとも身につけておかねばならない知識でもある。その知識を身につけるにはこの事例が一番ふさわしいので、少し解説しよう。
じつはこの問題は、「アルザス・ロレーヌ問題」というタイトルで百科事典の一項目にもなっているぐらいの話なのである。
〈アルザス・ロレーヌ問題
アルザスAlsaceとロレーヌLorraineはフランス北東部の地方である。1870-71年の普仏戦争の結果、フランスはベルフォール管区を除くアルザスとロレーヌ北部をドイツに割譲した。この地方はドイツとフランスの接触地帯として軍事的に重要な地位にあり、また鉄鉱、石炭、カリウムなどの資源が豊富であるため、独仏両国の絶えざる係争の地となった。1872年11月1日以前に、フランス国籍を選んだアルザス・ロレーヌ人は15万8000で、フランスやアルジェリアに亡命した。1871年から1914年にかけて、アルザス・ロレーヌ領有問題はフランスの軍事計画と外交政策に重要な意味をもっていた。両地方を失った結果、戦略上の重要性以外に、ドイツがルールの石炭と鉄鉱産地、製鉄・製鋼設備を手に入れたことである。アルザス・ロレーヌ地方の人々は併合に抗議し、国民投票を要求したが拒絶された。1879年に地方政府が認められたというものの、ドイツ帝国政府の代理者が絶対的な権限をもち、地方自治へのあらゆる試みは芽のうちに摘まれた。95年以後、フランス政府は教権反対政策によってアルザス・ロレーヌのカトリック教徒の大多数をドイツから離間させ、ドイツ領内の自治州化をはかった。1911年の新憲法によって自治への道は開かれたが、その政治効果は駐留するドイツ軍によって相殺された。その結果、軍隊と市民の衝突がしばしば起こった。(以下略)〉
(『世界大百科事典』平凡社刊 項目執筆者大嶽幸彦)
この項目はまだまだ延々と記述が続くのだが、このあたりでやめておこう、そうしないと、この項目だけで今回が終わってしまう。とにかく、両国の因縁が絡まった複雑な場所であることは理解していただけたと思う。この地方は、中世においては共に神聖ローマ帝国の領土であった。前回述べたように、言語や宗教や人種を超越した形でそれを統合するのが「帝国」というものであるが、アルザスの大部分はドイツ語圏だった。
ストラスブール大学と言えばアルザスにあるノーベル賞受賞者を輩出した名門大学だが、文豪ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテが若くして学んだころは行政的にはフランス領だったが、学内で使われていたのはドイツ語であった。この事実一つとっても、問題のややこしさがわかるだろう。日本にはこういう事例は無い。島国と大陸の違いは、こういうところにある。
また引用文にもあるように、オットー・フォン・ビスマルクが統一ドイツ以前のプロイセンの宰相だったころ、「普仏戦争」でナポレオン3世に勝った際にフランスから最初に奪ったのが「エルザス・ロートリンゲン」(アルザス・ロレーヌのドイツ語名)だった。さらに、ビスマルクはフランスのベルサイユ宮において、プロイセン王ウィルヘルム1世のドイツ帝国皇帝戴冠式を強行した。
このあたりは『逆説の日本史 第二十八巻 大正混迷編』で詳述したところだが、思い出していただきたい。この勝利によってドイツは民族の悲願であった統一ドイツを確立した。つまり、普仏戦争(実質的には独仏戦争)は歴史的にもきわめて珍しい、フランスの大惨敗だったのである。フランス人にとってはフランス共和国建国以来の屈辱だった。だからこそ日本陸軍は、当初のフランス方式をやめてドイツ式を採用したのだ。
またこのとき、後に首相も務め元老となる西園寺公望が留学生としてパリに入り、当時はジャーナリストだったが後にフランス首相となるジョルジュ・クレマンソーと生涯の友となったことも思い出していただけたろうか。
第一次世界大戦時のフランスの首相は、他ならぬこのクレマンソーであった。じつは大戦末期のフランスは厭戦気分が広がり、このままでは負けるのではないかという危機感が政府当局に芽生えた。そこで当時のレイモン・ポアンカレ大統領は、政敵であり「虎」と呼ばれた剛腕政治家クレマンソーを首相に抜擢した。