講和会議で締結されたベルサイユ条約で、フランスはこれまでどおりインドシナやアフリカ方面の多くの植民地は保持しつつ、ドイツはすべての植民地を失った。また賠償金はすべてフランス宛てではないが、それでもドイツが支払いフランスは受け取ったのだからこのプラスマイナスは限り無く大きい。さらに兵力を制限され、前述したように周辺国家に侵攻できないよう国境に中立地帯を設置され、航空機も潜水艦も保有できなくされた。そして大戦が起こり多くの犠牲者が出たことは、すべてドイツの責任にされた。ドイツは戦闘だけで無く、「道徳的」にも大惨敗を喫した。
それにしても、あまりにも強烈な「大勝利」だ。こうしたことは結局不幸を招くことが少なくない。不幸というのは、ドイツの不幸では無い。フランスの不幸である。なぜそうなるかと言えば、話は簡単だ。理不尽な扱いを受けたことに対する復讐心は人間を動かすもっとも強い感情の一つであるからだ。赤穂浪士がそうであり、日本が日清戦争に勝って獲得した遼東半島を露・仏・独の三国干渉で清国に返還させられたとき、日本は「臥薪嘗胆」(これも復讐心が国を団結させるという故事)を国民に訴え、見事日露戦争で借りを返したこともそうだ。復讐心というのは、こういう効果がある。
細かい話だが、フランスからはクレマンソー首相、アメリカからはウィルソン大統領、イギリスからはロイド・ジョージ首相、イタリアからヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド首相、そして日本からは西園寺全権大使が主要メンバーとして参加した講和会議は、パリで挙行された。この結果生まれた体制がベルサイユ体制と呼ばれるのは、この体制を決した条約がベルサイユで調印されたからだが、なぜパリでは無くベルサイユが選ばれたのか? いや、講和会議を仕切っていたフランスが、なぜベルサイユを選んだのか? もうおわかりだろう。「普仏戦争の借りを返した」のである。
少し先走る形になるが、このときからわずか二十一年後の一九四〇年(昭和15)になにが起こったか、読者の注意を喚起しておこう。第二次世界大戦が始まっており、アドルフ・ヒトラー総統率いるナチス・ドイツ軍がパリを占領しフランスを降伏に追い込んだのである。
もう何度も述べたことだが、日本の歴史学者はほとんどがきわめて狭い「部分」の専門家に過ぎないので、このあたりの機微がわからないし詳細な分析もしない。なぜ、ヒトラーがボロボロにされた敗戦国ドイツを「戦勝国」にできたのか? もちろんヒトラーはたしかに「きわめて有能な悪魔」ではあったのだが、彼の成功の最大の要因は「ドイツ国民の復讐心」であり、さらに具体的に言えば「ベルサイユ体制をぶちこわせ」という思いだった。
逆に言えば、マクロの視点で見る限りフランスが推進したべルサイユ体制は間違っていた。最大の敵であるドイツを弱体化するどころか、逆に世界有数の強国に成長させたばかりか、第二次世界大戦を招いてしまったからだ。
これが人間社会の恐ろしさであり、面白さでもある。そして歴史を学ぶ意義もここにある。
(第1454回に続く)
【プロフィール】
井沢元彦(いざわ・もとひこ)/作家。1954年愛知県生まれ。早稲田大学法学部卒。TBS報道局記者時代の1980年に、『猿丸幻視行』で第26回江戸川乱歩賞を受賞、歴史推理小説に独自の世界を拓く。本連載をまとめた『逆説の日本史』シリーズのほか、『天皇になろうとした将軍』『真・日本の歴史』など著書多数。現在は執筆活動以外にも活躍の場を広げ、YouTubeチャンネル「井沢元彦の逆説チャンネル」にて動画コンテンツも無料配信中。
※週刊ポスト2025年5月23日号