クレマンソーは期待に応えて反戦運動を徹底的に弾圧し、フランスを勝利に導いた。その後、大戦の決着をつける講和会議を主宰したのも、戦勝国の代表であるポアンカレ大統領とクレマンソー首相のコンビであった。もともと政敵同士であった二人が共闘できたのは、ドイツという共通の敵がいたからだ。そして同じく戦勝国の日本代表は、西園寺であった。数十年ぶりに二人はパリで劇的な再会をしたのである。
こうした歴史を知っていれば、新生国家ソビエト連邦のウラジーミル・レーニンが「無賠償」「無併合」「民族自決」に基づく講和をすべきだと世界に提言し、それに触発されたはずのアメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンがまとめた十四ヵ条のなかで、なぜ「アルザス・ロレーヌはフランス領」という一方的にフランス側に有利な提案がされているのか、理解できるだろう。
それは、そうしないと「フランスは納得しない」という観測がウィルソンに、いや世界の人々にあったからだ。フランスは講和会議でドイツを徹底的に締め上げる方針を貫いた。もちろん、フランスがそういう態度に出ることは事前の情報収集で予測がつくことである。
フランスは帝国主義の国だが、自国民に対しては民主的であり、当然情報もできる限り公開している。ちゃんとしたマスコミもあるから、そうそう勝手なことはできない。民意は「普仏戦争の屈辱を晴らせ」であり、「ドイツから巨額の賠償金を取れ」である。さらに、この戦争でもフランスはベルダン要塞攻防戦だけで約十六万人の戦死者を出している。いわばフランスは「ドイツ憎し」「ドイツ許すまじ」で固まっており、民主主義国家の代表であるポアンカレもクレマンソーも、その世論に従うのが民主的政治家としての「道」だったのである。
「復讐心」は人間を動かす
そうした空気のなか、一九一九年(大正8)に始まった講和会議には、敗戦国ドイツの代表は招かれなかった。そして、いわば欠席裁判の下で日本も含む連合国は、まずドイツのすべての海外植民地と権益を放棄させた。このためドイツが植民地としていた中国膠州湾は、青島要塞を攻略した日本が引き継ぐことになった。また植民地だけで無く、領土も削られた。
まずアルザス・ロレーヌはフランスに返還されることになり、ほかにも重要な拠点が周辺国に割譲された。またドイツにおける徴兵制は廃止され、陸軍は十万人、海軍は一万六千五百人の兵力しか持てず、航空機および潜水艦の保有は禁止となった。さらに、フランスとドイツの国境であるライン川などの地区は占領地あるいは非武装地帯とされた。そのうえですべての戦争責任はドイツにあり、それゆえに千三百二十億マルクにもおよぶ賠償金を支払うことも決められた。
フランスのドイツに対する長年の憎悪が、こうした結果を招いた。そのことは誰の目にもあきらかであったがゆえに、レーニンもウィルソンもそれをとどめることはできなかった。レーニンのソビエト連邦は前身のロシア帝国が革命で崩壊し途中で戦線を離脱したので、講和会議には招かれなかった。ウィルソンのアメリカは招かれたが、国際連盟の設立を最優先にするためフランスとの対立を回避しフランスの主張を全面的に認めた。
日本は膠州湾の権益、正確に言えば「山東半島と赤道以北の南洋諸島におけるドイツの権益」を確保するのが最優先課題であり、フランスがそれを認めたためフランスの方針には逆らわなかった。ひょっとして西園寺全権大使は、親友クレマンソーに「旧ドイツ権益の獲得さえ認めてくれればあとはフランスにすべて賛成する」と耳打ちしたかもしれない。こういうとき、これまではアメリカがしゃしゃり出てきて、日本の中国に対する「進出」を妨害しようとするのだが、先にも述べたように国際連盟の設立が最優先であったため、アメリカもこの点について文句は言わなかった。