たとえば、国民作家司馬遼太郎は小説『坂の上の雲』のなかで、日露戦争の歴史的評価について次のように述べている。
〈H・W・ウィルソンという英国の海軍研究家は、日露双方の発表によって事情が明快になったとき、「なんと偉大な勝利であろう。自分は陸戦においても海戦においても歴史上このような完全な勝利というものをみたことがない」と書き、さらに、「この海戦は、白人優勢の時代がすでにおわったことについて歴史上の一新紀元を劃したというべきである。欧亜という相異なった人種のあいだに不平等が存在した時代は去った。将来は白色人種も黄色人種も同一の基盤に立たざるをえなくなるだろう」とし、この海戦が世界史を変えたことを指摘している。〉
(『坂の上の雲(八)』 文藝春秋刊)
これは直接的には日本海海戦の評価だが、日露戦争全体の評価でもある。たしかに、現在「司馬史観」は多くの批判に晒されている。他ならぬ私も『坂の上の雲』に描かれている「無能軍人乃木希典」の姿にはまったく賛成できず、「明治激闘編」でその誤りを厳しく指摘している。
しかし、それでも一九四五年(昭和20)の敗戦以降、歴史学界の主導権を握った左翼歴史学者がとにかく日本を貶めようと教科書にまで曲筆を加えていたなかで、日露戦争の人類史的意義を我ら日本人に教えてくれたのは、紛れも無く司馬遼太郎である。この燦然とした功績は決して忘れるべきでは無いし、司馬遼太郎を批判するにしてもこの事実を踏まえて語るべきなのだ。
では、ここで改めて問おう。この人類初の快挙である「人種差別撤廃条項」の提案は、どのようにして葬られたのか?
(第1455回に続く)
【プロフィール】
井沢元彦(いざわ・もとひこ)/作家。1954年愛知県生まれ。早稲田大学法学部卒。TBS報道局記者時代の1980年に、『猿丸幻視行』で第26回江戸川乱歩賞を受賞、歴史推理小説に独自の世界を拓く。本連載をまとめた『逆説の日本史』シリーズのほか、『天皇になろうとした将軍』『真・日本の歴史』など著書多数。現在は執筆活動以外にも活躍の場を広げ、YouTubeチャンネル「井沢元彦の逆説チャンネル」にて動画コンテンツも無料配信中。
※週刊ポスト2025年5月30日号