作家の井沢元彦氏による『逆説の日本史』
ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。今回は近現代編第十五話「大日本帝国の確立X」、「ベルサイユ体制と国際連盟 その3」をお届けする(第1454回)。
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人間にとって、復讐心とはもっとも強いモチベーションかもしれない。第一次世界大戦で徹底的に締め付けられた敗戦国ドイツが、約二十年で戦勝国であるフランスを降伏させたという事実が、それを示している。そして人間は「反省する動物」でもあるから、第二次世界大戦が終わった時点で勝者である「連合国」は、敗戦国である日本やドイツに対し莫大な賠償金の請求だけはしなかった。
また、その結果誕生したとも言える「国際連合」も「反省」を生かしている。たとえば、安全保障理事会の常任理事国に認められている「拒否権」がそうで、多くの人はこれがあるがゆえに大国のワガママがとおり、国際的な調停機関であるはずの国連が機能を果たせないと思っている。だが、この拒否権が無ければ最近で言えばロシアが国連を脱退するのを止められなかっただろう。この先の話だが、国際連盟は有力加盟国がその決定を受け入れられず次々に脱退したことにより、事実上崩壊した。
ちなみに、日本では第二次世界大戦の相手国を「連合国」、その結果誕生した国際調停機関を「国際連合」と呼んでいるが、これは英語ではともに「United Nations」であって区別は無い(他国語でも同じ。たとえば、中国語ではどちらも「聯合國」)。しかし、まったく同じものでは無い。なぜならば、あくまで軍隊である「連合国(連合軍)」と、平時の調停機関である「国際連合」は、「連合国」が発展的解消したという連続性はあるが、基本的には別の組織だからだ。
国際連合は創立日を一九四五年(昭和20)十月二十四日としているので、これ以前を「連合国」、以後を「国際連合」とするのが日本語の表記としては妥当かもしれない。
話を一九一九年(大正8)に戻そう。第一次世界大戦が前年の十一月十一日に終了した翌年である。早くも一月十八日に、ベルサイユでは無くパリで講和会議が開かれることになり、前回述べた戦勝国の大物たちが顔をそろえた。日本も格落ちしては軽く見られるということで、原敬首相の懇請により元老西園寺公望が首席全権大使に、牧野伸顕が次席大使として渡仏した。
以前にも紹介したが、牧野伸顕は大久保利通の次男である。また牧野は元外務官僚で、ヨーロッパ在住経験もあり政治家に転じてからは山本権兵衛内閣で外務大臣を務めたこともあり、英米協調路線を支持する西園寺にとっては頼もしい後輩(13歳年下)だった。晩年は健康を損ねて大きな働きはできなかったが、牧野の女婿(長女雪子の夫)である吉田茂が首相となって、戦後日本の再建にあたった。
この二人の間の孫が、やはり首相を務めた麻生太郎自由民主党最高顧問である。ただ、牧野はこの一九一九年の時点では活力に溢れ、西園寺を大いに補佐した。
特筆すべきは、この牧野が中心となって国際連盟の創立理念のなかに「人種的差別撤廃提案」を盛り込もうとしたことだ。国際会議において人種差別撤廃を明確に主張した国は日本が初めてであり、言うまでも無く人類史上初めてのことだった。そのことを頭に入れて、次の高校歴史教科書の記述を見ていただきたい。
〈【パリ講和会議とその影響】
アメリカ大統領ウィルソンが提唱していた14カ条を講和の基礎としてドイツが受け入れたことで、1918年11月、第一次世界大戦の休戦が成立した。翌年1月からパリで講和会議が開かれ、日本も五大連合国の一員として西園寺公望・牧野伸顕らを全権として送った。6月に調印された講和条約(ヴェルサイユ条約)は、ドイツ側に巨額の賠償金を課し、軍備を制限し、ドイツ本国領土の一部を割譲させるきびしいものとなった。一方で民族自決の原則のもとで東ヨーロッパに多数の独立国家を誕生させ、また国際紛争の平和的解決と国際協力のための機関として国際連盟の設立を決めた。ヴェルサイユ条約にもとづくヨーロッパの新しい国際秩序を、ヴェルサイユ体制と呼んでいる。
日本はヴェルサイユ条約によって、山東省の旧ドイツ権益の継承を認められ、赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島の委任統治権を得た。しかし、山東問題については会議中からアメリカなどが反対し、連合国の一員として会議に参加していた中国は、日本の二十一カ条の要求によって結ばれた取決めの撤回を会議で拒否されたことや、旧ドイツ権益の中国への直接返還などを求める学生や労働者らの反日国民運動(五・四運動)がおきたことなどから、ヴェルサイユ条約の調印を拒否した。(以下略)〉
(『詳説日本史』佐藤信ほか著作 山川出版社刊)