ブーゲンビル島ではいまも、旧日本軍が造った防空壕を現地の人が日常生活に使っている。画面左側、コンクリート製構造物が防空壕の入口(撮影/筆者)
誰もが全滅を覚悟したときに伝えられた「終戦」
昭和20年に入ると、米軍に代わってトロキナに陣を敷いたオーストラリア軍が、日本軍拠点に対して本格的に侵攻を始めた。5月にはそれまで日本軍に協力的だった現地人が離反、集団で姿を消すとともに、前線に派遣した分遣隊がその襲撃を受けるようになり、なかには全滅させられた部隊もあった。
8月になると、オーストラリア軍は、日本軍陣地から重砲の射程圏内となる15キロの地点まで進出してきた。そこを流れるミオ川が天然の濠になっているが、この線が破られれば、3、4日で敵軍がなだれ込んでくる。
日本側は、砲弾も残りわずかである。福山隊では1門あたり70発の砲弾しか残っておらず、他の砲台でも似たような状況だった。全滅を誰もが覚悟した。そんな最終局面にあった8月16日、内地より一日遅れて、日本軍将兵に終戦が伝えられたのだ。
警備隊本部で終戦を聞き、砲台に戻った福山さんは隊員を集め、「皆も苦労の連続だったが、これで終わった。生きて還れるぞ!」と訓示した。
すると誰からともなく突然ワッという喚声が上がり、全員が諸手を挙げ、なかには跳び上がって喜ぶ者さえいたという。本国から見放されて2年近く、太平洋の捨て子部隊の、率直な感情の発露だった。
終戦時、ブーゲンビル島に生き残った日本軍は、軍人、軍属合わせて2万4000名あまり。昭和18年秋から終戦までに、4万3000名近くが犠牲になっていた。そのうち戦死者は約9000名にすぎず、残りは栄養失調や、マラリアなど風土病で死亡した者だった。
福山さんは翌昭和21年2月、復員輸送に使われた空母「葛城」に乗って浦賀に上陸。冬なのにボロボロの防暑服を着て、骨と皮ばかりに痩せた異様な姿の復員者の群れを見て、道ゆく人は皆、顔をそむけたという。
東京に帰ってみると、見渡す限りの焼野原で、渋谷の自宅も焼失。焼け跡には見覚えのある茶碗の欠片が落ちていたのみだった。がっかりしてその場に座り込むと、真白く雪を頂いた富士山の姿がとても近くに見えた。
「戦争中の生死を賭けた3年間を思えば、あとのことは付け足しです。あの期間は人生のなかの別物で、残りの人生とのつながりは全然ない。海軍時代の経験が、戦後の自分の仕事の役に立ったとも思えない。しかし、あの戦争で死んだ人たちのことはけっして忘れられません」
戦後、大学卒業時に就職していた日鉄鉱業に復職した福山さんは、亡くなるまで戦没者の慰霊に尽くした。
【プロフィール】
神立尚紀(こうだち・なおき)/1963年、大阪府生まれ。ノンフィクション作家。1995年、戦後50年を機に戦争体験者の取材を始め、これまでインタビューした旧軍人、遺族は500人を超える。『祖父たちの零戦』、『カミカゼの幽霊 人間爆弾をつくった父』など著書多数。
※週刊ポスト2025年8月8日号