81歳で亡くなったサッカー界のレジェンド、釜本邦茂さん
日本サッカーで唯一メダルを獲得した1968年のメキシコ五輪で得点王に輝いた釜本邦茂さんが8月10日、肺炎のため入院先の大阪府内の病院で死去した。81歳だった。国際Aマッチ76試合出場、75得点の日本記録を持ち、日本サッカーリーグではヤンマーの選手兼監督も務めた。引退後はガンバ大阪の監督に就任し、日本サッカー協会副会長や参院議員などを歴任。日本サッカー協会では強化推進本部長として日本サッカーが世界に通用するために尽力した。
本誌・週刊ポストの誌面にもたびたび登場し、常に歯に衣着せぬ物言いで読者にも多くの釜本ファンがいた。
その釜本さんが「ボクは両親の逝き方を真似したいと思うね」と語ったことがある。ご両親の話を取材した時のことだった。
「2人とも誰にも迷惑をかけない最期でしたからね。母(釜本ヨシヱさん)は90歳で他界(2003年1月11日死去)したが、一言でいえばハイカラな人だった。70歳から日本舞踊を習い始め、若者の間でピアスが流行ると65歳で耳に穴を空けたほど。
80歳を超えてもラメ入りの服を好んで着て、ボクの家内に“あなたが派手になって着られなくなった服は私に頂戴ね”と言う。父のために自宅で食事の用意をしながら、自分は近所の喫茶店のモーニングを食べないと1日が始まらないというような人。とにかく年寄りらしくない年寄りだった。ボクよりハイカラでした」
2002年末のことだったが、「トイレへ行く時に、コタツのコードにつまずいて転んでから腰が痛くなり、2週間ほど寝込んだあとに亡くなった。自宅の布団で眠るような最期だった」と釜本さんは振り返っていた。
「私は日本代表の五輪予選に中東に向かうために関空に向かうところだったが、連絡を受けて慌てて両親の家に向かうと救急車が到着しており、病院に運ばれた時にはすでに亡くなっていた。驚いたことに葬儀の日の朝に母が予約していた個人タクシーが迎えに来た。毎月1回、新歌舞伎座へ舞台を観に行くことにしていたらしく、その日がちょうど舞台を見に行く日だったという。最後まで周囲を驚かせる人だった。まったく周囲に迷惑をかけなかった」