しかし、あまり穏当な表現とは言えないが「盗人にも三分の理」があるのが人間の歴史の常識であり、共産主義あるいは天皇絶対主義などなど一つの価値観を価値判断の材料にし、それ以外は絶対悪だと断定する単純な歴史観では決して歴史の真相はわからない。
そうした観点からこの事件を見ると、まず注目すべきは、「1月22日に死去した前国王高宗は日本のさしがねで毒殺されたという噂がとびか」っていたという事実だろう。実は、この時点で「前国王高宗」というのは正確な表現とは言えない。日韓併合前の大韓帝国時代は「皇帝高宗」だった「彼」は、併合以後日本の天皇体制の下で徳寿宮李太王と呼ばれていた。
「前皇帝高宗」と言うなら間違いでは無いが、「前国王高宗」というのは「皇帝」と「国王」という概念を混同している。これは東アジア史の基本知識であり、単なる言葉の問題では無い。もし時を越えて「彼」がこの百科事典の記述を見たら、「無礼者! 私は元国王では無い。皇帝だ!」と激怒するだろう。「国王」というのは「皇帝」の家臣であり、格下の存在だからだ。
だが、国際法の世界では「李太王」であることは間違い無い。日韓併合によって大韓帝国は大日本帝国に「吸収合併」されてしまい、大韓皇帝という身分も消滅したからだ。
李ヒというのが本名だが、「彼」は自分が皇帝では無く国王に「格下げ」になったことに強い不満を抱いていた。なぜなら、自分がそうなったのはひとえに日本の元老伊藤博文と、家臣の「裏切り」によるものだと固く信じていたからだ。これも正確に言えば、大韓帝国総理大臣李完用が「彼」の意思に反して伊藤博文と「呼応」して「彼」を「格下げ」に追い込んだということは事実である。
だから、儒教でももっとも忠義を重んじる朱子学の価値観に徹しそれ以外は絶対悪だと断定するなら、たしかに李完用の行為は「反逆」に違いない。しかし、そもそも朱子学自体が「亡国の哲学」なのだから、その原則に忠実で無かったからといって絶対悪とは言えない。
ここのところは、すでに『逆説の日本史 第27巻 明治終焉編』で詳しく述べた。同巻は今年七月に文庫版も発売されたので、未読の読者はぜひ目をとおしていただきたいところだ。そのあたりの事情がわからない限り、「三・一独立運動」に対する正当な評価も不可能だからである。
(第1467回に続く)
【プロフィール】
井沢元彦(いざわ・もとひこ)/作家。1954年愛知県生まれ。早稲田大学法学部卒。TBS報道局記者時代の1980年に、『猿丸幻視行』で第26回江戸川乱歩賞を受賞、歴史推理小説に独自の世界を拓く。本連載をまとめた『逆説の日本史』シリーズのほか、『天皇になろうとした将軍』『真・日本の歴史』など著書多数。現在は執筆活動以外にも活躍の場を広げ、YouTubeチャンネル「井沢元彦の逆説チャンネル」にて動画コンテンツも無料配信中。
※週刊ポスト2025年10月3日号