朱子学は歴史学の「最大の敵」
ところで、現代の韓国人に「あなたは大韓民国以前はどんな家系だったのですか?」と尋ねると、まず間違い無く「両班でした」と答える。両班は知識階級であり、同時に上流階級でもある。つまり朱子学体制における「士」でもあるのだが、どんな国でもエリートというのはほんの一握りで、残りは庶民のはずである。その庶民というのは、寺子屋教育などが普及しアジアどころか世界有数の識字率を誇っていた日本とはまったく違い、文字の読めない人々であった。
いま「ハングル」(偉大な文字)と呼ばれているものは、諺文と呼ばれ一部で使われていたが、中国語を「正しい唯一の文字」とする支配階級はそれを「便所でも覚えられる記号」としてバカにしていた。ハングルを民族の文字として評価しいまの地位に引き上げたのは、統治時代の日本人である。もちろん、このことも現代の韓国人はほとんど知らない。
とにかく、エリートで無い人間のほうが圧倒的に多いというのが人類の常識である。それなのに、現在の韓国人に「あなたの先祖はどの階級でしたか?」と尋ねると「両班でした」という答えしか返ってこないのは、おかしいではないか。庶民も奴婢もいたし、彼らには教育が無いどころか人権すら無かったのである。それを解放したのは日本だ。
「天皇の下の平等」という形で一足も二足も先に東アジアで唯一「四民平等(士農工商の廃止)」を確立した日本が、朝鮮民族の進歩派にとってはじつに羨ましかったのである。朱子学体制にある限り市民国家どころか近代化すら不可能なのだから。だから李完用も日本の傘下に入ってとりあえず朱子学体制を叩き潰し、西洋近代化を実現できる国家にしようと思ったのである。
だが、日本の「弟子」になってまだ十年目。改革はようやく始まったばかりだ。こんな段階で独立などできるわけが無いだろう。それを許せばまた韓国は一部のエリート、つまり朱子学体制の人間が支配する前近代的専制国家に戻ってしまう。
それゆえ、李完用は「辛抱せよ」と同胞に忠告したのだ。日本の体制下で育った、それは男女共学あるいは義務教育(すべての子供が学校に行く)の下で、ということだが、そうした子供たちが大人になり社会の主流になるまでは、到底独立などできない。また忠告のなかにもあるように、ちゃんとした市民層が育っていないのだから、地方自治権や参政権を与えるのには早すぎる。
たしかに一部のエリートは不満だろうが、それは朝鮮を朱子学体制に戻す危険な動きと連動する可能性がある。十年前まではエリートというのはそういうものだったからだ。ちなみに李完用は孫に対して「これから75年後には、李氏姓をもつ日本の内閣総理大臣が生まれるだろう」(引用前掲書)と言った。
なぜ「百年後」とか「五十年後」で無く「七十五年後」なのか。私は李完用の「計算」がわかる。つまり、日本の教育を受け完全に西洋近代化したなかで育った「朝鮮系日本人」が大人になって社会に入り、選挙権も得て社会を動かすようになるにはちょうどそれぐらいかかる、ということだろう。日本の統治は敗戦によって「三十六年」で終わってしまいこの予言は実現しなかったが、逆に李完用が朱子学に骨の髄まで毒された祖国が完全に立ち直るためにはそれぐらいの時間が必要だと認識していたことがわかる。