「尾崎将司プロ45周年記念大会」で青木功(右)と握手する尾崎将司さん。滋賀県甲賀市の富士スタジアムGC南(時事通信フォト)
通算113勝を挙げているジャンボこと尾崎将司さんがS状結腸がんのため12月23日に死去した。78歳だった。
1960年代に中村寅吉や小野光一の活躍で第一次ゴルフブームが起こり、杉本英世、河野高明、安田春雄の和製ビッグ3の登場でゴルフが大衆化。さらに1970年代にトーナメント時代を迎え、空前のゴルフブームに突入した。この第二次ゴルフブームを牽引したのが青木功であり、ジャンボだった。【前後編の後編。前編から読む】
2人はライバル心むき出しでやっていたが、ジャンボが40代の時、青木が1983年に米ツアーの「ハワイアンオープン」で優勝した時から関係に変化が起きた。ジャンボと親交が深かったゴルフジャーナリストの三田村昌鳳氏が語る。
「それまで尾崎は青木については“負けたくないライバル”という存在だった。尾崎はその試合をロサンゼルスでのジャンボ軍団の自主トレ中に見ていた。私は自主トレの取材に訪れていたが、当時、尾崎の口から“オレの頭の中から青木功は消し去る”という言葉を聞いた。つまり、青木が、尾崎がというのではく、それ以降はライバルではなく、ひとりの強い選手だという認め方をして、その時に初めて自分のことだけを考えるようになった。それで尾崎はさらに強くなった」
ジャンボは、青木をライバルではなく一人の強い選手と認めることで自分のゴルフができるようになったという。
「もちろん尾崎も青木もあからさまにライバルだとはいわなかった。青木が尾崎のことを口にするようになったのはシニアになってからで、“ジャンボがいるからこんちくしょうと頑張れた。ジャンボが恩人だ”と言う。むしろ尾崎より青木の方がそう思っていた。青木の方が5歳年上だし、たたき上げの青木らしい表現だと思う」
この2人が世界と日本とに戦いの場が分かれたが、ジャンボの海外嫌いは有名。飛行機に乗るのが嫌だし、海外の食事も苦手だったという。ジャンボが米ツアーに本格参戦しなかった理由とされているが、三田村氏は「農耕民族と狩猟民族の違いがある」という。
