小林旭一覧

【小林旭】に関するニュースを集めたページです。

石原さとみの人気は高い(時事通信フォト)
ヤクザに聞く「ヤクザ映画のヒロイン演じてほしい女優」石原さとみが大人気
 ヤクザ映画のファンは多いが、リアルを追求するなら“ホンモノ”に頼むのが一番。ヤクザが監督になったら、どんな俳優をキャスティングしたいのか? ライターの鈴木智彦氏が現役組員100人にアンケートを実施。鈴木氏が綴る。【Q1】「監督なら誰をヤクザの情婦にするか?」・1位 石原さとみ 23人・2位 米倉涼子 16人・3位 壇蜜 9人・4位 吉永小百合 8人・4位 橋本環奈 8人・6位 清原伽耶 7人・6位 川口春奈 7人・8位 梶芽衣子 3人・8位 沢尻エリカ 3人・同率10位 それぞれ2人 篠原涼子、内田有紀、永作博美、矢田亜希子、井川遥、松嶋菜々子、菅野美穂、深津絵里 石原さとみはダントツの圧倒的人気だった。「ヤクザは全員好きだと思う。総長の女っぽい感じがすごくする」そうである。米倉涼子が「なんでもしてくれそう。注射器の扱いがうまそう」というのは主役を演じた女医ドラマのせいだろう。 壇蜜は世代問わず人気で「長い懲役でも待っててくれそう」だが、ヤクザたちは最近の激やせを心配している。吉永小百合を推したのは年寄りだろうと決めつけないで欲しい。一番多かったのは40~50代だ。が、橋本環奈を挙げたのはみな若い。単に付き合いたいということらしいが、そうなったら「浮気騒動でヤバい事件が起きそう」と評した組長もいる。 清原伽耶は『おかえりモネ』の主役だし、川口春奈は昨年の大河のヒロインである。ちなみに最近は警察がうるさいので、NHKの受信料を支払っている組事務所が増えている。梶芽衣子は熱烈ファンがいまもいる。 沢尻エリカの「ドラッグとか好きそう」は冗談なのか本気なのか分からない。篠原涼子は「ヤクザの姐さんによくいるタイプ」で、内田有紀は「修羅場でもびびらなそう」で、永作博美は「度胸があって警察ともバチバチにやり合いそう」という理由だった。矢田亜希子の「不良の男が好きそう」はあまり笑えない。 井川遥は「美人なのに男を顔で選ばなそう」で、松嶋菜々子は「とにかく強い男が好きそう」、菅野美穂は「若い衆に気を配ってまとめてくれそう」、深津絵里は「堅気なのに騙されて竿師と結婚しそう」らしい。余計なお世話であろう。【Q2】「本物だと思うヤクザ俳優は?」・1位 高倉健 38人・2位 梅宮辰夫 9人・2位 小林旭 9人・4位 松方弘樹 8人・5位 千葉真一 7人・5位 ビートたけし 7人・7位 哀川翔 5人・8位 菅原文太 3人・9位 小沢仁志 2人・同率10位 それぞれ1人 成田三樹夫、若山富三郎、山口祥行、池部良、勝新太郎、鶴田浩二、白竜、的場浩司、中野英雄、本宮泰風、寺島進、安藤昇 1位の高倉健は、約4割の支持を集めて圧倒的である。「健さんに憧れてヤクザになった」と断言する人も10人程度いた。梅宮辰夫、小林旭、松方弘樹、千葉真一らは東映実録映画の常連で、ヤクザ映画全盛期のスターなので妥当な評価だ。そう映画マニアではないのにビートたけしは評価が高い。本物に伝わる凄味があるのだ。 哀川翔、菅原文太、小沢仁志と、それぞれヤクザ映画やVシネマの帝王も名前が挙がった。健さんに圧倒的大差を付けられ、文太が生きていれば憤ったかもしれない。【プロフィール】鈴木智彦(すずき・ともひこ)/1966年、北海道生まれ。日本大学芸術学部写真学科除籍。雑誌・広告カメラマンを経て、ヤクザ専門誌『実話時代』編集部に入社。『実話時代BULL』編集長を務めた後、フリーに。近著に『サカナとヤクザ 暴力団の巨大資金源「密漁ビジネス」を追う』(小学館文庫)。※週刊ポスト2021年10月15・22日号
2021.10.13 16:00
週刊ポスト
球界の大物たちが「銀座の夜」の思い出を振り返る(写真はイメージ)
「打倒巨人」が合言葉だった 昭和のプロ野球選手、銀座での「夜の延長戦」
 昭和20代頃から日本一の繁華街として“男たちの憧れ”だった銀座。文壇や政財界の関係者が多い銀座はスポーツ選手にとってはハードルの高い場所だったが、それでも一流のプロ野球選手は銀座を愛した。中でも人気だったのが、直木賞作家の山口洋子が率いる「姫」。球界の大物たちが思い出を振り返る。 * * * 1983年の日本シリーズで巨人を4勝3敗で破って日本一になった西武ライオンズ。埼玉・所沢の西武球場(当時)横の特設会場でビールかけを終えた東尾修、田淵幸一、大田卓司、永射保、工藤公康ら主力選手たちの姿は、東京・銀座にあった。そう、二次会の場所はクラブ「姫」である。主力として日本一に貢献した山崎裕之もその宴に参加したひとりだった。「私はお酒があまり得意じゃないですが、初めて巨人に勝って日本一になったので、1度だけ『姫』に繰り出したんです。みんな大喜びで羽目を外して、今やソフトバンクの監督をしている工藤公康が酔っぱらって床に大の字になって寝ていたという記憶があります。 銀座が好きな東尾や田淵たちが仕切ってくれていた。我々はついていくだけでしたが、『姫』のママの山口洋子さんが西武ライオンズの“私設応援団長”として有名だったこともあり、その時は『姫』が貸し切りだったと記憶しています」 当時、プロ野球選手にとって銀座で飲めるというのは「一流」の証だった。「特に関西から遠征に来たチームの選手は地方では遊べないので羽を伸ばす意味合いもあったようです。銀座好きで有名な選手が打席に入ると、“銀座が終わっちゃうぞ”というヤジが飛び、つい笑ってしまうこともありましたね」(山崎)「巨人に勝ったら銀座」 銀座への“はやる気持ち”は身内からもぶつけられた。ヤクルトの元エース・松岡弘はこう証言する。「ボクが入団した当時のサンケイは凄かった。個性的で我が強い選手ばかり。特に内野手は個性的で、マウンドでモタモタしていると、四方から“打たせろ”“ストライク投げろ”とうるさい。9時を過ぎると“約束してるんだから早く試合を終わらせろ”としょっちゅう小石が飛んできました」 カミソリシュートを武器に“巨人キラー”の異名をとった大洋ホエールズ(現DeNA)の元エース・平松政次も銀座に足繁く通った選手である。「ボクもよく銀座には足を運びました。後楽園で(巨人戦に)勝って銀座に行くのが目標だったからね」 しかし、巨人の人気が凄まじかった当時、他球団の選手が気持ちよく酔うためには、「巨人に勝った」という“切符”が必要だった。「負けたら? 行かないですよ。みっともない。巨人に勝って店に行くと、“今日はいいピッチングだった”とお客さんから声をかけられて、それを励みに野球をやっていたようなもの(笑)。(大洋の本拠地である)川崎球場でも巨人戦で勝つと銀座まで遠征していた。とにかく巨人、巨人、巨人の時代でした」(平松) 当然、人気球団である巨人の選手たちも銀座の常連であった。しかし、彼らに試合の勝ち負けは関係ない。「よく巨人の選手に会いましたよ。柴田(勲)さん、末次(民夫)さんあたりは、勝っても負けても行っていたんじゃないかな。行くたびに会ったよ。ボクは巨人戦に勝った時しか行かないから、巨人は負けているということだからね」(平松)小林旭もいた“世界の王”もこんなエピソードを残している。「王(貞治)さんが寮に入っていた時代、寮長の奥さんが夜10時の点呼に行ったら王さんがスーツを着て寮の雨戸をはめていた。こっそり抜け出して銀座に行こうとしていたんです。奥さんが“王君、どうしたの?”と声をかけると、王さんは“雨戸が壊れているので直しているんです”と答えたそうです」(元巨人担当記者) 巨人と対戦できるのはセ・リーグのチームだけ。当時は交流戦もなく、オールスターや日本シリーズで負かすしかなかった。「巨人戦に勝つとタニマチと呼ばれるスポンサーが銀座に招待してくれるんですよ。大洋の先輩だった長田(幸雄)さんや近藤和(彦)さんも後楽園でホームランを打った日は銀座に出掛けていましたね。 当時は銀座といえば『姫』でした。『姫』に行くと小林旭さんといった芸能界でもトップの人に会えた。ママの山口洋子さんに名前を覚えてもらって初めて一流選手の仲間入りじゃないですかね。ボクは山口さんから声をかけてもらって嬉しかった」(平松) 最後にこう総括した。「最近は銀座と野球選手はあまり話題にならないが、当時はママだけでなく粋なホステスも多かったからね。ああいう時代は二度と来ないだろうな」文/鵜飼克郎※週刊ポスト2021年9月17・24日号
2021.09.15 11:00
週刊ポスト
伊藤つかさ『少女人形』のジャケット写真
最強の昭和ポップスは? 貴重な存在だった「伊藤つかさ」
 世代を超えて、長く愛され続けている昭和のヒット曲。令和になっても、ゴールデンタイムのバラエティー番組で昭和歌謡が特集されたり、日本の“シティーポップ”が世界的に流行したりと、日本の音楽界を彩った昭和ポップスが人気なのだ。そこで、昭和ポップスに詳しい俳優・歌手の半田健人さん、昭和歌謡ライターの田中稲さん、Webデザイナー&サイト運営するさにーさんの3人が集結し、“最強の楽曲”を決めるべく、鼎談を開催した。まずは、それぞれが“最強の楽曲”候補として事前に選出した“昭和ポップスMY BEST10”から発表しよう。【半田健人さんのMY BEST10】第1位 バス・ストップ /平浩二(1972年)第2位 みずいろの手紙 /あべ静江(1973年)第3位 また逢う日まで/尾崎紀世彦(1971年)第4位 ひとりじゃないの/天地真理(1972年) 第5位 私はピアノ/高田みづえ(1980年)第6位 あなたの心に/中山千夏(1969年)第7位 君が美しすぎて/野口五郎(1973年)第8位 ふりむかないで/ハニーナイツ(1970年発表、レコード発売1972年)第9位 お座敷ロック/五月みどり(1958年)第10位 ルビーの指環/寺尾聰(1981年)【田中稲さんのMY BEST10】第1位 TVの国からキラキラ/松本伊代(1982年)第2位 青葉城恋唄/さとう宗幸(1978年)第3位 ギャランドゥ/西城秀樹(1983年)第4位 お嫁サンバ/郷ひろみ(1981年)第5位 熱き心に/小林旭(1985年)第6位 少女人形/伊藤つかさ(1981年)第7位 ラ・セゾン/アン・ルイス(1982年)第8位 疑問符/河合奈保子(1983年)第9位 色つきの女でいてくれよ/ザ・タイガース(1982年)第10位 前略、道の上より/一世風靡セピア(1984年)【さにーさんのMY BEST10】第1位 YOUNG MAN/西城秀樹(1979年)第2位 時代おくれ/河島英五(1986年)第3位 あんたのバラード/世良公則&ツイスト(1977年)第4位 S・O・S/ピンク・レディー(1976年)第5位 勝手にしやがれ/沢田研二(1977年)第6位 ハッとして!Good/田原俊彦(1980年)第7位 SEPTEMBER/竹内まりや(1979年)第8位 初恋/村下孝蔵(1983年)第9位 飾りじゃないのよ涙は/中森明菜(1984年)第10位 SWEET MEMORIES/松田聖子(1983年) この鼎談では、それぞれのMY BEST10の6位から4位に注目する。 * * *──6位から4位のランクイン曲を見ていきましょう。半田:6位の『あなたの心に』は、メロディーが本当にシンプル。いまならディレクターがOKしてくれないんじゃないかというくらいです(笑い)。──最近の曲は複雑になりすぎているということですか?半田:そうですね。もう少し音数を抜いていくといいのかなと思います。5位は『私はピアノ』。サザンオールスターズが好きというわけではないんですが、この曲に関しては好き。メロディーがとにかく素晴らしい。ぼくの好きな曲の5本の指に入るお気に入りです。4位は田中さんも思い出の!?天地真理ちゃん。田中:ははは(笑い)。半田:以前、出演したドラマで、主演女優の2人が『ひとりじゃないの』を歌う場面があって。真理ちゃんが歌っているわけでもなく、雰囲気も全然違うのに、とてつもなくいい曲に聴こえたんです。「ああ、誰が歌ってもいい歌なんだと思える曲を作るのがプロなんだな」と、そのときに再認識しました。田中:私の6位は、伊藤つかささんの『少女人形』。これは、曲自体が彼女の存在にぴったり合うっていうのと、少女人形という言葉がいいなと。あと、伊藤さんや菊池桃子さんみたいな歌手はもう出てこないだろうなと思っていて。半田:もう出てこないと……。田中:はい。カラオケが普及したことで、こなれ感なく素朴に歌うのって、逆になかなか難しいと思うんですよね、これからの時代。半田:ものまねになっちゃいますもんね。田中:そうそう! 本当にピュアな状態で歌っていた伊藤つかささんって、いま思えば貴重な存在だったように思います。5位は小林旭さんの『熱き心に』。これはもう聴いた瞬間、雄大な曲だと。私の中で大スターが身近になったじゃないですけど「こういう曲も歌ってくれるんだ〜」って思った、すごい曲なんです。半田:わかりますよ。銀幕スター然とした人で、それまでは映画主題歌を歌っていた小林旭さんが、大滝詠一さんが作るポップスに降りてきたっていうイメージですよね。田中:そう。意外性の発見というか……新鮮さというか。私もたまにカラオケで歌いますが、大変爽快な曲ですね。4位は郷ひろみさんの『お嫁サンバ』。最初に聴いたとき、変な曲だけど楽しい!って思ったのを覚えています。半田:これはもう、郷さんしか歌えないですもんね。田中:そうなんです。80年代特有のお祭り感を感じました。さにー:私の6位は『ハッとして!Good』。田原俊彦さん好きっていうと、意外に思われることもありますが、たしかに歌唱力は微妙かも、ですが、過小評価されている1人だと思うんです。半田:シングル曲のトシちゃんは、うまいんですよね。結局は、何に比べて下手かというと新御三家の3人。でも「これ、トシちゃんだよね!?」ってわかる声と歌い方を持っているのは、それだけでもうプロの歌手なんです。田中:私もトシちゃん大好きです。カラオケで『哀愁でいと』(1980年)を歌うと、あの曲って延々とテンションが低いんですよ。ああいう曲を聴かせられるトシちゃんって、実はすごい歌手じゃないかって、最近思うことがあります。半田:わかる! 田原さんってエンターテイナーでもありますから、ダンスも抜群!さにー:曲のアレンジも好きなのですが、田原さんの曲って、ジャズっぽくスイングしてますよね?半田:そうそう、デキシーランド・ジャズみたいなね。さにー:『チャールストンにはまだ早い』(1984年)がビッグバンド風だったり。田中:いいですよね、あれ!さにー:1970年代までは歌謡曲とワールドミュージックが結構、融合していましたが、私は1980年代バージョンで、それを成功させたのは、田原俊彦さんの楽曲なんじゃないかなと思っているんです。田中:ポール・アンカもトシちゃんに曲を作っています。半田:そう。実は世界的なヒットメーカーが楽曲を提供している。さにー:すごいですよね~。5位の沢田研二さんの『勝手にしやがれ』は“歌謡バー”で、このイントロが流れてくると、お客さんの反応が尋常じゃないんです。曲が始まった途端、みんな立ち上がって「アアア~、アアア~」って。初めて見たとき、かなり衝撃的でした。半田:知らないと、ちょっと怖いかもね(笑い)。さにー:自分たち世代は知らない共通認識みたいなものが、この歌にはあるんだって思ったのが印象的でしたね。そして4位が『S・O・S』です。半田:数あるピンク・レディーの中でなぜ『S・O・S』を選んだの?さにー:この曲は1990年代にNHKで放映されていた『アリスSOS』というアニメの主題歌だったんです。歌っている人もアレンジも違うんですけど。おもしろいのは、私も周りのみんなもアニメのストーリーは忘れているのに、曲は覚えているんですよね。田中:へぇ~。ユーチューブとかで見られるの?さにー:はい、見られます。歌詞も素晴らしいですが、メロディーがすごくいい。半田:あの曲の元になっているのは、井上順さんの『昨日・今日・明日』(1971年)。歌い出しとか、すごく都倉俊一さんらしい。わかりやすくて、テンポもそこまで速くない。さにー:ここという見せ場があるわけじゃないのに、なんか乗っちゃうメロディー。『ひとりじゃないの』でも話に出たように、誰が歌っても耳にこびりついちゃうメロディーの強さがあって、好きなんです。【プロフィール】半田健人/1984(昭和59)年生まれ。『仮面ライダー555』で初主演。2014年に自身初のオリジナル・フルアルバム『せんちめんたる』をCD&LP同時発売。2017年に全曲自宅録音のアルバム『HOMEMADE』をリリース。現在は作曲家やタレントとしても活動している。田中稲/1969(昭和44)年生まれ。大阪を拠点にライターとして活動中。昭和歌謡、ドラマ、懐かしブームなどを中心に執筆。著書に『昭和歌謡 出る単 1008語』(誠文堂新光社)など。CREA WEBにて『田中稲の勝手に再ブーム』を連載中。さにー/1992(平成4)年生まれ。Webデザイナーの傍ら、1970〜1980年代のヒット曲の総合情報サイト『あなたの知らない昭和ポップスの世界』を運営。昭和ポップスの魅力を伝えるため、ラジオやテレビなどにも出演。※女性セブン2020年10月22日号
2020.10.13 07:00
女性セブン
プロ野球のオープン戦も無観客(共同通信社)
新型コロナ「興行中止保険」適用困難か 支払い巡り裁判も
 新型コロナ問題の収束の兆しはまだ見えない。万単位の人々が集うスポーツ観戦以外でも、政府の自粛要請に応じた中止や延期が相次いでいる。小林旭や橋幸夫など、大物歌手の歌謡ショーを全国各地で手掛ける夢グループ代表の石田重廣氏が語る。「お客様の多くが60~80代であり、コロナウイルスの影響が大きいことを考慮して3月中の全66公演を延期しました。求めがある場合は返金するという対応です。チケット総額は約5億円ですが、うち2割が返金となった場合は1億円の損失です」 災害等による大規模イベントの中止に備え、損保各社は「興行中止保険」を販売するが、今回は適用が困難なケースが多くなりそうだという。「保険金が払われるかどうかは、個別の保険契約書や約款によります。新型コロナの感染拡大が保険会社の免責事由にあてはまるかどうかは解釈が分かれ、自粛はあくまでも政府による“要請”に過ぎない。支払いを巡り裁判になることもあるかもしれません」(弁護士の福岡隆行氏) たとえウイルスの感染拡大を止めることができたとしても、“失われたカネ”を巡る戦いは続く。※週刊ポスト2020年3月20日号
2020.03.14 07:00
週刊ポスト
宍戸錠さんはタフにユーモラスに生きた高田文夫のパイセン
宍戸錠さんはタフにユーモラスに生きた高田文夫のパイセン
 放送作家、タレント、演芸評論家で立川流の「立川藤志楼」として高座にもあがる高田文夫氏が『週刊ポスト』で連載するエッセイ「笑刊ポスト」。今回は、母校・日本大学芸術学部の先輩でもある俳優、宍戸錠さんとの思い出についてお送りする。 * * * 心の中の“昭和芸能史”の灯がまたひとつ消えた。「エースのジョー」宍戸錠、86歳で死去。たしか本棚のどこかにあったはずと探すと2冊、『シシド 小説・日活撮影所』が出てきたので久しぶりに読んだ。「上」にあたるのが新潮社から。「完結編」とあるのが角川書店からと別のものだった。1冊目を書いて筆が止まらなくなったのだろう。唐突に「(つづく)」と終わって、奥付をみると2001年から11年もたって2012年に続編の完結編が出ている。このあたりがこの人らしくて何か笑っちゃう。 石原裕次郎、小林旭、赤木圭一郎の時代から、ついに61年『ろくでなし稼業』で初の主演を勝ちとり走りぬけること10年、1971年に日活がロマンポルノを始めるまで「エースのジョー」としてひとさし指を一本、顔の前に立て「チッチッチッチ」と不敵に微笑んだ。 エースのジョーは早撃ちのジョーでもあって、0.65秒は世界第3位だと知って、子供ごころにいたく興奮し、真似をして早撃ちにチャレンジしたがまったく駄目だった。0.65秒って誰が計ったんだろう。 日大芸術学部の学生時代に日活が募集した第1期ニューフェイスに合格。口癖は「オレはチャンユーのパイセンだよ」。訳すと「俺は裕ちゃんの先輩だよ」ってことになる。ダンディでシャレっ気のある人だった。私のライブにもよく見にきてくれて、第一声が「高田は、あいかわらず下らねぇな」だった。そして必ずこう付け加えた。「オレは高田とチャンユーのパイセンだよ」日芸の大先輩と後輩なのだ。 母親から錠(ジョー)と名付けられたので、自分の息子には錠(カギ)をあけて欲しいと、宍戸開と名付けた。 小林旭の「渡り鳥シリーズ」は無国籍映画と呼ばれはしたが、日本の美しい風景やら和のテイストで撮られていたので、自分は徹底的にバタ臭く西部劇でやろうとした。1961年初主演『ろくでなし稼業』につづいては『用心棒稼業』『助っ人稼業』『赤い荒野』『俺は地獄へ行く』『紅の銃帯』『早射ち無頼 大平原の男』『メキシコ無宿』『気まぐれ渡世』『抜き射ち風来坊』『大氷原』『銃弾の嵐』『危いことなら銭になる』……あげていったらキリがない。 映画からテレビでも活躍。『ゲバゲバ90分!』『元祖どっきりカメラ』、そして『くいしん坊!万才』では4代目として509回も出演している。 人生のエンディングでは奥様を失くし家も全焼と気の毒な事もあったが、いつもタフにユーモラスに生きた我がパイセンだった。■イラスト/佐野文二郎※週刊ポスト2020年2月14日号
2020.02.03 07:00
週刊ポスト
小林旭には豪快な伝説が多い(時事通信フォト)
反社と芸能人 小林旭、梅宮辰夫、月亭可朝の「交際伝説」
 吉本芸人らが反社会勢力への“闇営業”で金をもらっていたとして謹慎処分を受け、テレビ界に激震が走っている。黒い交際は大問題だが、この期に及んで「間接的」だの「知らなかった」だの、なんと往生際の悪いことか。時代が異なると言ってしまえばそれまでだが、昔のスターは違った。プロインタビュアーの吉田豪氏が、自ら見聞した大物芸能人と「反社の人々」の交際伝説を振り返る。 * * * 今回の吉本芸人たちを見ていると、テレビに出られなくなるのが怖くて嘘をつかざるを得なかったんだろうなぁと思います。反社と知っていたかどうかはともかく、そこからお金を貰っているのがバレたらテレビ的には絶対アウトだし、大きな仕事があるから認めるわけにはいかなかったんでしょう。 吉本興業ではちょくちょくヤクザがらみの問題が起きている印象がありますが、1970年代に楽屋での賭け事を禁止したあたりから反社との付き合いに厳しくしてきたんです。なにせそれまでは大っぴらに楽屋で「おいちょかぶ」(花札のゲーム)とかが行なわれていて、ヤクザが負け金を取り立てに来るのが当たり前だったみたいですから。決定打になったのが、1979年に吉本芸人たちの野球賭博が問題になった時でした。 その騒動で吉本を辞めたときのことを、昨年亡くなった月亭可朝さんがインタビューでこんなふうに言ってました。「『なぜいかんのか?』と聞いたんですよ。ほんだら『暴力団の資金源になるからに決まっとるやないか』って言うから、『私はいま勝ってますんで、暴力団の資金を吸い上げてるんですから、そんなら表彰もんでっか?』言うたら『アホなこと言うな!』って怒りよったね」(吉田豪著『新人間コク宝』より) 全然反省してないんですよ(笑)。それが原因でテレビから干されるんですけど、この頃は吉本の対応もかなりいい加減で、局から弁償を求められるのを恐れて吉本から「お前、ウチの専属じゃなかったようにしといてくれ」と可朝さんに頼んだそうです。 でも、可朝さんは落語家として高座に上がれる場があったから、別に吉本辞めてテレビに出られなくなってもやっていけたんです。 それは昭和の映画スターたちも一緒。あの人たちはいまのタレントと違ってテレビに依存してないから、テレビ的なコンプライアンスを気にする必要もない。だからこっちが聞くと平気でヤクザとの付き合いを認めちゃうんです。 小林旭さんは2008年に後藤組の後藤忠政組長のゴルフコンペに参加したことが発覚して問題になったんですが、その数年後にインタビューした記事が、そもそも「オレがヤクザとゴルフしたからって誰が困るんだよ」ってタイトルからしてどうかしている(笑)。「親分がゴルフ主催して、そこに俺も一緒にいて、和気あいあいと仲よくゴルフして、ケラケラ笑って遊んでただけで、何もそのゴルフ場で刃傷沙汰が起きたわけでもなきゃ、なんでもないよ。何がいけないの?」(『SPA!』2011年12月6日号) 謝罪する気なんてさらさらないし、騒動についても「ダメージなんか受けるもんか、そんなもん!」って言い切っちゃってる。 それどころか、柳川組の柳川次郎組長から時計もらったとか、山口組の田岡一雄組長と「叔父、甥の契り」をして山口組のカフスをもらって周りに見せびらかしたとか。全く隠す気がないんです。 梅宮辰夫さんの場合は、「最近のやくざ映画の俳優は全然ダメだ。あいつら本職とつながりがないから」ってダメ出ししてました。「だいたい『仁義なき戦い』を撮ってる頃、撮影中はいっつもヤクザでいっぱいだったから。で、実録モノってやったでしょ。だから配役にしても全部、その親戚縁者がいっぱい来て『俺のオヤジをカッコよくやってくれよ』とかさ、いろいろ注文されたりしてね。まあ、でもこっちも役者だから、やっぱりリアルに演じたいからさ」(『新人間コク宝』より) それで山本健一組長(山口組若頭)のマネをして眉毛を剃り落として、家に帰ると娘のアンナさんが泣き出したという(笑)。(談)※週刊ポスト2019年7月12日号
2019.07.01 16:00
週刊ポスト
ずっとフリーの十朱幸代「私ほどスターと共演した女優いない」
ずっとフリーの十朱幸代「私ほどスターと共演した女優いない」
 日本の帯ドラマの基礎を固めたといわれるドラマ『バス通り裏』で女優デビューを飾り、今年で60年。十朱幸代(76才)がその人生を振り返り記した自伝『愛し続ける私』(集英社)が話題になっている。華やかな世界で活躍し続ける彼女の素顔に迫る。 女優を志したのは父の影響が大きい。父・十朱久雄は東京・日本橋に江戸時代から続く老舗の麻問屋「小倉貿易」を営む家に生まれながら、家業を継がずに俳優になった。その父の仕事先についていくうちに、テレビ放送が始まって間もないNHKの連続ドラマ『バス通り裏』の主演・元子役に抜擢された。当時は生放送だったので、入学したばかりの高校を早退してスタジオ入りする日々になった。 それ以前に銀座でスカウトされ、子役モデルとして少女雑誌のグラビアを飾っていたので、カメラには慣れていた。「だけど、女優としての勉強は何もしていない、素養もない。でも“そのままがいい”と言われて、遊びに行っているようなものでした(笑い)」(十朱・以下同) この作品での素直な演技が認められ、巨匠・木下惠介監督の映画『惜春鳥』に起用され、さらには舞台へと活躍の場が広がる。「でも、演じてみて力のなさに自分でも呆れました。特に舞台では歩く姿さえサマにならない。役をいただくたびに慌てて日本舞踊を習い、お茶を習い、三味線を習い…、そうやって、所作や決まり事を身につけたんです」 独特の舞台化粧にも悩んだ。「舞台メイクは自分でするんですけど、普通は弟子入り先や、所属する劇団などで教えてもらうんです。でも、私はフリーなので、誰にも干渉されない代わりに教えてももらえない。眉一つ描けないから、毎回、ヘンな顔になってしまって(笑い)」 共演の大女優・山田五十鈴が見るに見かねて、照明も考慮し、客席の最後尾からもきちんと見える「顔」の作り方を教えてくれたという。「ずっとフリーだったから、映画会社の枠にしばられることなく、私ほどたくさんのスターさんと共演してきた女優はいないんじゃないかしら。本当に恵まれてきたと思います」 人気絶頂だった頃の中村錦之助(のちの萬屋錦之介)、高倉健、渥美清、仲代達矢、緒形拳、勝新太郎、津川雅彦、舞台でも森繁久彌や長谷川一夫、島田正吾など日本の芸能史に燦然と輝く俳優たちと共演してきた。「私、当時の女性としては背が高い方で、162cmを超えていたんです。思いっきり高いハイヒールを履いても、気を使わないでいられたのは、石原裕次郎さん、小林旭さん、高倉さんくらい。でも、年とともに縮んじゃって、いやだわ(笑い)。脊柱が縮むんですって」 いつしか清純派から、汚れ役もできる演技派に変貌を遂げた。芸を教えられ、演技を語り合った俳優もそのほとんどがすでに世を去った。同じ時代を生きた女優たちは結婚し、引退した人も少なくない。「仕事がつらいと思ったことも、やめようと思ったこともありません。恋愛した時、迷いはあったけど、私には女優以外の生き方はないと思って。失恋の苦しみや悲しみは、いつしか演技に生かしてきたんです。人と競うという気持ちもないし、器用でもない。でも、仕事に対する情熱だけは捨てられなかったんです」※女性セブン2018年12月13日号
2018.11.30 07:00
女性セブン
元山口組大物組長の「自伝映画」撮影、公開に向け高まる緊張
元山口組大物組長の「自伝映画」撮影、公開に向け高まる緊張
 実在のヤクザを描く実録映画はかつて多く作られたが、暴力団排除の風潮のなか近年は鳴りを潜めていた。それが突如として「超大物」を題材とした映画化計画が浮上。現実の抗争にまで影響を及ぼしかねない危険を孕んでいるという──。 3つの山口組を名乗る団体が乱立する異常事態から1年半あまり、抗争収束に向かう気配は見えない。そんななか、3団体の関係者が一様に注目するのが、ある元大物組長の動向だ。「山口組の元最高幹部、後藤忠政元組長(76)をモデルとした映画の撮影が進んでいる。後藤元組長は2008年に引退してからほとんど表舞台に出ることはなく、とくに山口組が分裂して以降は沈黙を貫いてきた。映画がどんな内容になるのか、さまざまな噂が広がっています」(山口組関係者) 後藤氏率いる後藤組は、山一抗争(*)で敵対する一和会組長宅にダンプカーで突撃するなど武闘派組織として注目を集め、渡辺芳則・五代目体制では山口組の東京進出を主導、2002年には若頭補佐となり執行部入りを果たした。当時の後藤氏は、芸能界との交友などでも知られた存在だった。【*1984年、竹中正久組長が4代目を襲名したことに反対した反竹中派が「一和会」を結成。竹中組長は一和会に殺害され、山口組は報復に動いた。1989年の一和会解散までに双方で25人の死者を出した】 だが2008年、細川たかし、小林旭ら芸能人が後藤氏主催のゴルフコンペに参加していたことが『週刊新潮』の報道で発覚、NHKが参加者の番組出演を見合わせる社会問題に発展した。報道直後の定例会を病欠した後藤氏は、六代目山口組から除籍処分を受けた。フリーライターの鈴木智彦氏が解説する。「後藤元組長は、六代目体制でモノを言う人物でした。役職をかさに命令されても、納得できなければ反論し、行動する。その気概が周囲からも認められていたため除籍処分に抗議した13人の直系組長の連名談判状が出され、山口組を揺るがす騒動となりました。 除籍に抗議して処分を受けた組長のなかには分裂後に神戸山口組に移った者もいる。後藤元組長は神戸の井上邦雄組長とも親しいことから、分裂後、引退していたにもかかわらず神戸側に合流すると噂されました。実際には後藤元組長は一切動かず、表にも出てこなかった。だからこそ、映画制作の話は暴力団関係者に“なぜ、このタイミングに”という驚きを与えているのです」◆ロケ地の許可に難航 どんな内容なのか。映画に協力する関係者が語る。「撮影は8月から始まり、11月にはクランクアップ、年明け公開予定だそうです。監督は『パッチギ!』などを撮った井筒和幸氏。そして主演は、当世一番人気の音楽グループのメンバー。 制作費は4億円で、後藤元組長も全面協力しているようです。後藤元組長には20万部のベストセラーになった自伝『憚りながら』があるが、それが原作ではない。六代目側に配慮し、除籍騒動には触れず、彼が成り上がるまでを描く内容になっている。登場人物には実在のモデルがいますが、『仁義なき戦い』のように仮名にしている。撮影は東映のスタジオを借りているほか、群馬、岐阜でもロケが行なわれています」 ただし、映画公開までには障壁も多いという。「分裂抗争中の山口組にかかわり得ることですから、警察当局は過敏に反応し、ロケ地の許可はなかなか下りなかったようです。映画が完成しても、上映する映画館の見通しもついていない」(同前) スタジオを提供している東映に、配給も手がけるのかと聞いてみると、「弊社の配給ではない」(広報部)と説明した。井筒監督の所属事務所に聞くと、「現時点では何もお答えできません」と答えるのみだった。 映画公開に敏感なのは、後藤氏が所属していた六代目山口組だといわれる。「すでに六代目側のなかでは、『除籍になった人間が勝手に極道映画を作って許されるのか』『除籍問題に触れないとしても現執行部への批判めいた描写があるかもしれない』といった批判や懸念がある。実際に旧後藤組の関係者が後藤氏に『公開は勘弁してもらえませんか』と相談したが、聞き入れてもらえなかったそうです。もちろん後藤氏本人はトラブルの火種になることは望んでいないと言っています」(後藤氏の知人) 後藤氏はなぜ映画にこだわるのか。ジャーナリストの溝口敦氏はこう分析する。「田岡一雄・三代目組長の役を高倉健が演じた『山口組三代目』など、昔から映画の題材になることが大物組長のステータスでした。まして後藤元組長は映画との縁が深い。後藤元組長はもともと『北陸の帝王』と呼ばれた川内弘組長の子分でしたが、川内は自身をモデルとした映画『北陸代理戦争』の公開直後に殺されています。 また、ヤクザの民事介入暴力を描いた映画『ミンボーの女』の内容に怒った後藤組組員が伊丹十三監督を襲撃したこともあったし、引退直後には私費を投じて『BOX 袴田事件 命とは』という袴田事件に関する映画を作ってもいる。思い入れのある映画づくりを、除籍に追い込まれた自分の最後のやり残しだと考えているのではないか。後藤本人は、抗争に影響を与えるつもりはないはずです」 だが、抗争真っ只中の状況を考えれば、映画公開の波紋がどうなるのかは誰もわからない。「映画が来年公開なら、秋に出所予定の六代目山口組の高山清司若頭との因縁が思い浮かぶ。高山若頭は司組長の収監中に後藤除籍の処分を主導した。制作側が意図しなくても、暴力団界隈で2人の因縁が取り沙汰されるのは仕方ない」(同前) 公開が近づくにつれ緊張は高まる。※週刊ポスト2018年11月23日号
2018.11.12 16:00
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伝説的雑誌『映画の友』 創刊編集長が語るヒットの哲学
伝説的雑誌『映画の友』 創刊編集長が語るヒットの哲学
 それまで暗い印象のあったアダルトメディアが日の目を見た1970年代、とりわけ異彩を放っていたのが『EIGA NO TOMO』だ。もともと『映画の友』は、洋画紹介誌として一時代を築いたが、1967年に休刊。その後、商標権を譲り受けた近代映画社が日活ロマンポルノの特集雑誌『EIGA NO TOMO』として復刊し、最盛期には40万部を記録したとも言われている。なぜ『EIGA NO TOMO』は他の映画雑誌と一線を画すことができたのか。創刊編集長・小杉修造氏(近代映画社顧問)が同誌の誕生秘話を語る── * * * 休刊していた外国映画誌『映画の友』の名を引き継ぎ復刊したきっかけは、1975年に遡ります。前年に公開されたフランス映画『エマニエル夫人』がヒットしたのを受け、ロマンポルノに力を入れていた日活が『東京エマニエル夫人』の製作に乗り出したことを聞きつけた私は、同作の写真集の企画を日活に持ちかけました。 当時、私が編集長を務めていた『近代映画』は、かつて石原裕次郎や吉永小百合、小林旭といった日活の黄金期を支えたスターを長年紹介してきた歴史があります。当時の『近代映画』はアイドル誌になっていましたが、日活とは太いパイプでつながっていました。 こうしたアダルト要素の強い本が売れるかは未知数でしたが、半月で製作した『東京エマニエル夫人』の写真集は想像以上の売れ行きでした。アダルトという新たな金脈を掘り起こした、そんな思いで日活ロマンポルノに特化した雑誌を作ることになったのです。 一方で、1967年に休刊した『映画の友』の知名度は依然高く、どこかで使えないかと思っていた矢先でした。こうして、『映画の友』の編集長を務めていた映画評論家の淀川長治さんの承諾を得た上で、1976年に『EIGA NO TOMO』を創刊したのです。ローマ字表記にしたのは淀川さんと『映画の友』のファンに対する仁義みたいなものです。 創刊から1年で隔月刊から月刊化したのは、売れ行きがよかったからです。創刊当初の部数は3万~4万部。出すごとにこの数字が伸びていきました。新しい編集者を雇う余裕がなかったため、業務は『近代映画』のスタッフに手伝ってもらいました。当時、『近代映画』の発売日は毎月21日でしたから、その校了後に、今度は10日発売の『EIGA NO TOMO』の仕事に取り掛かるといった具合でした。◆カメラマンが張り付いた スタッフの頑張りもあって『EIGA NO TOMO』は大成功を収めたわけですが、その一方で他社から、いくつも類似誌が創刊されることになりました。しかし、脅威になったものは一誌もありません。 他社と最も違ったのは、ロマンポルノの撮影現場に、常に自社のカメラマンを張り付かせていたことです。『EIGA NO TOMO』のカラーグラビアを彩ったのは近代映画社オリジナルの写真でした。他社は、映画会社からの提供写真で構成せざるを得ません。この点だけでも誌面作りの自由度がまるで違ったといえます。 カラーグラビアのレイアウトにもこだわりました。他のポルノ映画を扱った雑誌が、裸体の上半身でトリミングしていたグラビアが多かったのに対し、『EIGA NO TOMO』では男女の肌が密着している下半身までしっかり掲載しました。それが、男性の感性を揺さぶるものだと知っていたからです。後年、読者からの好評を受けてカラーグラビアのページ数がどんどん増えていきましたが、そのレイアウトとキャッチコピーだけは、私がひとりでずっと担当しました。 ひっそりと商売をやっているつもりだったのに、書店で『月刊プレイボーイ』と並んで置かれることが増え、世間的な認知度も高まっていきました。おかげで、日本雑誌協会や警視庁から何度も呼び出されたのは、懐かしい思い出です。当時はこだわりを尽くして良質な本を作れば売れる時代。創刊から休刊までおよそ15年でしたが、振り返ってみると、とても幸せな時代でした。取材・文■小野雅彦※週刊ポスト2018年3月16日号
2018.03.09 16:00
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片岡鶴太郎が考えるモノマネと芝居、その共通点と違い
片岡鶴太郎が考えるモノマネと芝居、その共通点と違い
 映画史・時代劇研究家の春日太一氏がつづった週刊ポスト連載『役者は言葉でできている』。今回は、数々のモノマネで知られるお笑い芸人としてキャリアをスタートし、今では役者としても活躍する片岡鶴太郎が語った、モノマネと芝居についての言葉をお届けする。 * * * 片岡鶴太郎は1980年代にお笑い芸人としてバラエティ番組などで活躍した後、俳優としての実績を積み重ねていった。「子供の頃にフジテレビのドラマで渥美清さんが棟方志功を演じているのを観て、幼心に強烈でした。シリアスとペーソスを演じる姿に憧れましたね。 それで役者さんになりたいとは思っていましたが、養成所に入るというのは性に合わない気がしました。弟子になりたかった。もう四六時中、その世界にいたいと思っていましたから。 それで清川虹子さんや松村達雄さんのところに弟子志願で行きましたが、断られるんです。役者って弟子をとらないの。 師弟関係というのが存在しているのは演芸の世界でした。それで(片岡)鶴八師匠の弟子にさせていただきました。鶴八師匠はモノマネの中でも歌舞伎の声色をされていて、全て芝居仕立てでやるわけですよ。ようするに、モノマネで一人芝居をやっている。芸が好きでしたし、ゆくゆくは芝居をやりたいという想いもあったので、鶴八師匠の弟子になろうと思いました」 本格的に俳優としての仕事をスタートさせたのは、1986年のTBSドラマ『男女7人夏物語』だった。「雑誌とかでは『ドラマをやりたい』と言っていましたが、バラエティの仕事を数多くいただいていて時間がなかった。そんな時に話が来たんですよね。 バラエティだと『陰と陽』の陽の部分しか表現できなかった。そこに僕はどこかバランスがとれないでいました。人間の苦悩や不条理もやっていたいと思っていて。それで、僕の演じた貞九郎が恋に悩んだり、部屋の電気を消してうつむいたりした時に『こういうのがやりたかったんだ』と思えました。 今までは例えば小森のおばちゃまや小林旭さん、現実の人をモチーフに表現していたわけですが、今度は架空の人。残像に近い存在を具現化していく作業になるわけです。それは初めての体験でしたが、『この部分は西田敏行さんのあのフレーズがあるな』とか、いろんな人の『この部分がある』というのを引っ張ってきて、モノマネの延長線上にある表現を考えていました。 でも、そこで声マネまでしちゃうとただのモノマネになってしまう。ですから、そうではなくて、その人のニュアンスというか匂いみたいなものだけを持ってきて貞九郎という役を構築していきました。 そうしているうちに、セリフが表に張り付いているだけだったのが段々と中に入ってきて、たたずまいが憑依していくという体験をしていくわけです」 その後しばらく、俳優とバラエティを並行してこなしている。「バラエティは瞬発力です。どう流れていくか分からないのを楽しむ。役者には、共演の方々とのアンサンブルの中の一員を務める楽しみがあります。 ドラマの撮影が一週間あると気持ちがまったりしてくるんですが、そこで週一でバラエティに戻ることで空気を変えられる。役者だけだったら煮詰まっていたと思います。僕にとっては、いいバランスでした」●かすが・たいち/1977年、東京都生まれ。主な著書に『天才 勝新太郎』『鬼才 五社英雄の生涯』(ともに文藝春秋)、『なぜ時代劇は滅びるのか』(新潮社)など。本連載をまとめた『役者は一日にしてならず』(小学館)が発売中。◆撮影/藤岡雅樹※週刊ポスト2017年3月24・31日号
2017.03.21 07:00
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文太、松方、千葉、梅宮ほか『仁義なき戦い』シビれる名言集
文太、松方、千葉、梅宮ほか『仁義なき戦い』シビれる名言集
 1973年1月13日、映画『仁義なき戦い』(深作欣二監督)が公開され、圧倒的な人気を呼んだ。シリーズ5作品は公開から40年以上が経った今も、ソフト化作品の人気がまったく衰えていない。その最大の魅力は、脚本家・笠原和夫が書き、男盛りの役者陣が魂を吹き込んだ「名セリフ」にある。『仁義なき戦い』は、実際に起きた広島ヤクザ戦争の当事者である美能組・美能幸三元組長の獄中手記をもとに映画化された。戦後の日本を震撼させた抗争劇が、謀略や裏切りのエピソードと共に生々しく描かれる。 第1作『仁義なき戦い』(1973年)は、山守組が誕生し、広能昌三(菅原文太)や坂井鉄也(松方弘樹)ら若者たちが力をつける中、老獪な山守義雄(金子信雄)の策略で、その多くが命を落とすまでを描く。 第2作『広島死闘篇』(1973年)は、いわば番外編であり、広能が狂言回し的なポジションに下がり、山中正治(北大路欣也)と大友勝利(千葉真一)の2人の若者の対照的な生き方を軸に展開する。ストイックなあまり自死を選ぶしかなかった山中と、戦後派の代表として暴力の限りを尽くす大友は、シリーズにおける鮮烈な光となった。 そして第3作『代理戦争』(1973年)と、第4作『頂上作戦』(1974年)で、激烈な抗争がクライマックスを迎える。関西の2大組織である神戸・明石組と神和会を巻き込んだ広島の勢力争いは、西日本のヤクザ地図を塗り替えるほどに重要な意味を持った。死者17人、逮捕者1500人という広島抗争は、何ら実りのないまま終焉し、広能も獄中の人となる。 ここでシリーズは大団円を迎えるはずが、あまりの人気に『完結篇』(1974年)が製作された。脚本は笠原和夫から高田宏治に交代し、広能や武田明(小林旭)の世代から、後を引き継ぐ若い世代への襲名が大筋となった。そして全5作は、どこから切り取って観てもクセになる大傑作として今に名を残す。主要出演者のシビれる名ゼリフを振り返ろう。●菅原文太(広能昌三役)【山守さん 弾はまだ残っとるがよう】『仁義なき戦い』 山守組・山守義雄組長(金子信雄)の謀略により、若頭の坂井鉄也(松方弘樹)は無残な最期を遂げた。その葬儀で広能昌三は「鉄ちゃん、満足じゃなかろう」とつぶやき、銃弾の雨を降らせる。最後に山守に向かって放った言葉は、本作を余韻の残る傑作に高めた。【あとがないんじゃ… あとが…】『仁義なき戦い』  山守組と敵対する土居組組長の抹殺を命じられた広能は、山守組長から「これで遊んでこい」と金を渡される。娼婦を買い、ゆきずりの情事に溺れる広能の愛撫は、娼婦が「痛い!」と訴えるほど荒々しい。捕まれば死刑か?──そんな緊迫感が広能を“性の野獣”に変えた。【トルんなら今ここでトリないや! 能書きはいらんよ、いつでも待っとるよ 】『代理戦争』 シリーズにおける広能昌三は、血気盛んな若者と老獪な組長たちとの板挟みにあい、常に苦虫を噛み潰したような顔をしている。それでも時折、理不尽な場面になれば青筋を立て、怒髪天を衝く表情に変わる。この落差が作品にメリハリを与え、観客に一体感をもたらした。●松方弘樹(坂井鉄也役・『仁義なき戦い』/市岡輝吉役・『完結編』)【神輿が勝手に歩けるいうんなら歩いてみないや、おう!】『仁義なき戦い』 組員から取り上げたヒロポンを横流しした組長に詰め寄り放たれた、シリーズ屈指の名セリフ。ヤクザの世界で絶対である親(組長)に向かい「神輿」と言い放つ爽快感が、サラリーマンの共感を得た。演じた松方は当時30歳で、この作品が役者稼業の分岐点となった。【お前ら構わんけ、そこらの店ササラモサラにしちゃれい!】『完結篇』『完結篇』のシナリオにも、広島県人に聞いても「ササラモサラ」という言葉は存在しない。松方は撮影が終われば大部屋俳優を中心とした「ピラニア軍団」と酒を飲むことが多かったが、そこで耳にした「ササラモサラ(めちゃくちゃの意)」をアドリブで使ったという。【喧嘩はいつでもできますがのォ、酒は滅多に飲めん】『完結篇』「毒を以て毒を制す」を実践したのが、『完結篇』における市岡輝吉だ。不倶戴天の敵である大友勝利(宍戸錠)に、あえて「30分だけ飲みましょう」と接近。市岡以上に狂犬である大友はこれを拒絶するが、「喧嘩はいつでもできますがのォ」と丸め込んだ。●千葉真一(大友勝利役)【もし、あいつ等が飯食えんようになったら、あんた等も飯食えんような体になってもらいますけん!】『広島死闘篇』 村岡組が警備を担当する競輪場において、大友一派は爆破などの行為を繰り返す。これを見かねた市議会は大友を説得するが、大友の答えは「わしンとこの若いもんにはレースで飯食うちょるもんも大勢おりますけんの」と、木刀を片手に聞く耳を持たないのである。【わしらうまいもん食うてよ、マブいスケ抱くために生まれてきとるんじゃないの】『広島死闘篇』 梅毒で脳を侵され、シリーズきっての凶暴キャラである大友だが、その理論はどこか正鵠を射ている。シノギの不文律を父親に諭されても、「うまいもん食うてよ、マブいスケ抱くために生まれてきとるんじゃないの。それも銭がなけりゃできやせんので」と逆説教する。●梅宮辰夫(岩井信一役)【わしらタクシー屋のおっちゃんに用はないさかい、これから1人で歩いたらよろしいがな。でもええでっか。前向いても崖や、後ろを向いても崖やで!】『頂上作戦』 代理戦争でありながら、山守義雄の襲撃を決起しない打本昇(加藤武)に対し、岩井はしびれを切らして「あんた、タクシー屋のおっちゃんか」と皮肉を込める。「事業一本に絞りたい」と弱気な打本の返事に対し、岩井は「崖」の言葉を叩きつけた。【そんな極楽は極道の世界にはないよ。人を喰わにゃァ、おのれが喰われるんで】『代理戦争』 岩井は盟友の広能昌三に対し、山守義雄組長を追い落として広島を手に入れたらどうかと提案。だが広能は「わしゃ呉で収まっとりゃええ」と静観。岩井は「そんな極楽は極道の世界にはない」と叱咤する。1文字違いの「極楽」と「極道」の大きな差だ。【おんどれらも、吐いた唾飲まんとけよ】『頂上作戦』「吐いた唾飲まんとけよ」とは、「いったん口にした言葉を忘れるなよ」という最後通牒である。幼かった娘・アンナが泣き叫んだという逸話を持つ、梅宮辰夫の「眉毛を剃り落とした異様な姿」が、セリフの凄味を増幅する。ケンカの常套句として今に継承されている。●渡瀬恒彦(有田俊男役)【やれんのう! わいらのやること、いちいちケチつけられたんじゃよう!】『仁義なき戦い』『仁義なき戦い』シリーズを一言で表わすなら“下剋上”である。とりわけ、第1作において切れ味を発揮するのが、主要キャスト最年少だった渡瀬恒彦。若頭の坂井鉄也(松方弘樹)にヒロポンの密売を咎められると、全身に不機嫌さをまとい、上目使いで反論した。【何すっかバカが、わしゃ怪我人じゃ!】『仁義なき戦い』「実録」と銘打たれた本シリーズは、ふとした瞬間のリアルな、どこかコミカルな表情を描くことも抜群にうまい。車を暴走させた末についに逮捕された有田は、血まみれのままなぜか警官に対し「わしゃ怪我人じゃ!」と、何の言い訳にもならない雄叫びを挙げる。【兄貴、戦争はもう始まっとるんで】『仁義なき戦い』 有田は、兄貴分の新開宇市(三上真一郎)を、旧知の市会議員と対面させた。議員は新開に、若頭の坂井鉄也を追い落とせと進言するが、新開は身震いするのみ。それを見た有田は「戦争はもう始まっとるんで」と、背中を押す。その後、有田は坂井の弟分を射殺した。●小林旭(武田明役)【広島極道は芋かもしれんが旅の風下に立ったことは一遍もないんでっ】『頂上作戦』 シリーズは、第3作の『代理戦争』から武田明役として小林旭が加入し、さらにオールスター映画の華やかさを増す。山守組の若頭として貫禄を見せる武田は、神戸の大組織・明石組に対して一歩も引かず「旅の風下に立ったことは一遍もないんでっ」と意地を見せた。【借りは貸しを生むためのもんじゃ】『完結篇』 20年にも及んだ劇中の広島ヤクザ抗争は、もはや「切った張った」の時代ではなく、いかに「経済力をつけるか」の戦いであった。武田は「借金だらけ」とうそぶきながら、実は帳簿や博奕の貸し借り表など、きちんとした財産を組の発展のために残しておいた。【わしらの時代は終わったんじゃけん】『完結篇』 武田は跡目を松村保(北大路欣也)に、広能昌三は氏家厚司(伊吹吾郎)にそれぞれ譲り、戦争の終結とともに一線を退くことを決意する。武田は「終わったんじゃけん一杯やらんかい」と広能を誘うが、広能は「死んだモンにすまんけんのう」と固辞した。※珠玉の名セリフ100篇を詳細に分析した『仁義なき戦い 100の金言』(石田伸也著、徳間書店刊)、『仁義なき戦い Blu-ray BOX《初回生産限定》』(2万9800円+税/販売:東映/発売:東映ビデオ)が発売中。本編のほか、貴重なボーナスディスクやブックレットなどを封入。※週刊ポスト2017年3月3日号
2017.02.23 07:00
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鬼才・小沼勝が愛した日活ロマンポルノと美しき女優たち
鬼才・小沼勝が愛した日活ロマンポルノと美しき女優たち
 1971年にスタートし、1988年に製作を中止するまで日活ロマンポルノは1000本を超える作品を公開した。その17年間を通して作品を撮り続けたのは、小沼勝監督(79)ただ一人である。その華麗なる映像世界を高く評価される“鬼才”が、女優たちと歩んだロマンポルノ人生を語り尽くした。 小沼監督は北海道・小樽生まれ。小学生の頃から映画に親しんだ。中学2年で東京に転居し、一浪して日大芸術学部映画学科へ。就職活動では松竹の試験を受けて不合格になるも、大学の掲示版で「日活助監督募集」の告知を見て受験し、合格した。 小沼監督が入社した1961年の日活は、戦時中に撤退していた映画製作を再開して7年が経ち、石原裕次郎の登場で低迷期を脱した頃だった。「日活撮影所で裕次郎を最初に見たのは入社間もない頃の食堂でした。瓶ビールをグラスに注いで一人で飲んでいました。本当は撮影所では禁酒でしたが、『ビールは酒ではなく水である』と言う人でしたからね。撮影中に飲む劇用の酒も本物でした」(小沼氏、以下「」内同) 初任給は1万2000円。撮影1本の手当は約5000円で、1本100万円クラスの監督もたくさんいた。約10年の助監督生活の中で、小林旭や吉永小百合など日活を支えたスターらとともに映画製作に没頭した。 1960年代後半から映画館の客足が減り、日活は経営難に陥る。ついに1971年の『八月の濡れた砂』(藤田敏八監督)、『不良少女 魔子』(蔵原惟二監督)を最後に製作中止に追い込まれた。 そこで日活が社運を賭けたのが、「製作期間7~10日」「予算750万円」「上映時間70分」「10分に1度の濡れ場」などの条件で製作する新路線「ロマンポルノ」だった。 この路線転換に反対し、多くの監督やプロデューサーが日活を去った。小沼氏は自宅待機中の10月半ば過ぎ、製作部長から呼び出され、「監督をやってほしい。ポルノだけど、セックスシーンが3つ、4つあれば自由に撮っていい」と告げられた。入社10年目の監督昇進だ。「世間では老舗日活がピンク映画プロダクションまがいのことを始めると聞いて眉をひそめる人も多かった。製作条件も過酷でしたが、ピンク作品の助監督の経験もあったし、罪悪感も全くなかった。やっと自分の映画が撮れるという喜びだけで、不安はゼロでしたね」 日活ロマンポルノは1971年11月20日、白川和子主演『団地妻 昼下りの情事』(西村昭五郎監督)、小川節子主演『色暦大奥秘話』(林功監督)の2本立てで封切られた。それに先立つ撮影所での『昼下りの情事』の試写会は、監督やスタッフらで約100席が埋まり、立ち見が出るほどのすし詰め状態だった。 第1弾の公開後、ロマンポルノは大ヒット。50館弱で始まったが、すぐに80館に拡大され、好調な滑り出しとなった。◆予想外だった映倫の審査 小沼氏の初監督作品は『花芯の誘い』。レイプされて記憶喪失になった女の恋人と兄が、様々なレイプを仕組んで再現し、女の記憶を取り戻させる物語だ。主演はエキストラ派遣会社所属の女優・牧恵子だった。「撮影初日は特に緊張しませんでした。とにかく新人の主演女優のことで頭が一杯でした」 映倫の審査で、絶対大丈夫と自信があったシーンが問題視され尺を短くする対応を迫られたが、監督デビュー作は1971年12月18日、ロマンポルノ第3弾として無事に公開された。 翌1972年には4本を監督。うち3本に出演したのが田中真理だ。「巨人の大投手スタルヒンの血筋といわれる色白の美形でした。芝居を見て何かが足りないと思い、早く撮影が終わった日に飲み屋に誘うと、ビールを飲んで解放されたのか、よく喋り、魅力的な表情を見せてくれた。『そういう顔、カメラの前でしてくれなきゃ意味ないよ』と注文すると、翌日の撮影では伸び伸びと演じてくれました」 この年、田中は山口清一郎監督『ラブ・ハンター 恋の狩人』など主演2作がわいせつとして警視庁に摘発されたことで、秋の大学祭で引っぱりだこの人気者になった。翌1973年に退社したが、8年に及ぶ裁判では“エロスの女闘士”に祭り上げられた(1980年に無罪)。 1972年に『団地妻 忘れ得ぬ夜』(遠藤三郎監督)でロマンポルノ初主演を果たしたのが、ピンク映画界のスター女優・宮下順子だった。翌1973年、彼女主演の『四畳半襖の裏張り』(神代辰巳監督)を小沼氏はロマンポルノ史上最高の映画と評価する。「神代演出の最高峰であり、僕の大好きな作品です。この作品は彼女を得たことで成功をおさめたと言ってもいいでしょう」 片桐夕子は小沼氏の唯一の時代劇『大江戸(秘)おんな医者あらし』(1975年)など4作に出演した。小沼氏の元妻でもある。「一度男に惚れて、噛みついたら絶対に離さない一途さが夕子の“お家芸”。ロマンポルノの屋台骨を支えた女優ですが、NHKに出演したり、ATG映画の『鬼の詩』(1975年)に主演したりと、幅広く活躍しました」 SM作品でロマンポルノのスターとなるのが、ピンク映画界で女王の地位を築いていた谷ナオミだ。小沼氏は団鬼六原作『花と蛇』で谷と初めて組んだ。「谷さんはSMの教養のない監督をよく引っ張ってくれました。縛り方で緊縛師と意見が対立した時も、彼女は緊縛師に『あなたもプロなら監督の言う通りやりなさい』と一喝。後日、二人きりになった時、『監督はもっとスタッフや役者に自信あふれる態度で接してほしい』と囁かれた。初めてプロの女優と出会った気がしました」『花と蛇』に続き、谷主演の『生贄夫人』も大ヒットを記録。ロマンポルノの全盛期に貢献したが、1979年の結婚を機に引退した。 主演デビュー作『OL官能日記 あァ!私の中で』を撮った小川亜佐美も小沼氏が忘れられない女優の一人だ。「別の監督が新橋のアルバイトサロンでスカウトし、僕が面接して出演が決まりました。演技経験ゼロでも、初々しさに色気もある。ベテランだと嫌がるキスシーンも、激しく相手の唇をとらえて離さず、相手役も大いに気が乗った様子でした」◆自分の作品で初めて泣いた 朝日新聞の映画評に取り上げられて広く世間に知れわたった作品が、『妻たちの性体験 夫の眼の前で、今…』だった。主演は風祭ゆき。「細身で美形、日活には少ない金持ち夫人役が似合う女優でした。この作品の集団レイプのシーンは運動会みたいになって、ゆきさんの細い体が壊れないか心配でしたが、杞憂でした。『また小沼組に参加したい』と志願してくれて、翌年『悪女軍団』にも出てくれました」小沼氏が「自信作」に挙げるのが、SMショーで生計を立てる若い男女の旅を描いた『縄と乳房』だ。「主演の松川ナミは谷ナオミ引退後の1982年にデビューしSM路線を担った女優です。ローソクのシーンでも、熱さをこらえて、熱い部分に性感が集中しているような見事な演技をしてくれた。相手役の田山涼成の演技も素晴らしく、自分の映画の試写で初めて泣きました」 1980年代に入ると、ビニ本の氾濫やAVの普及などで、ロマンポルノは次第に衰退していった。1985年、AVに対抗して始まった過激路線《ロマンX》の一本として撮ったのが『箱の中の女 処女いけにえ』。会社からは、オールビデオ撮り、モザイク多用という指示が出された。「主演の木築沙絵子は、汚物の流れる下水道の中を全裸で逃げ惑うシーンに挑んでくれた。前貼りが剥がれそうとか泥水が目に入ったとか泣きごとを言わない。彼女の強靱な精神がなければ撮れなかった作品です」 その他にも、山科ゆり、小川恵、高田美和、志水季里子など、小沼作品を彩った女優たちとの思い出は尽きない。「女優のベストワンは挙げられない。しかし、小沼勝が女優に恵まれた監督だったことは間違いありません」●こぬま・まさる/1937年、北海道小樽市生まれ。1961年、日大芸術学部映画学科を卒業後、日活に入社。助監督として最初についたのは、森永健次郎監督、香月美奈子、川地民夫主演の『胸の中の火』(1961年)だった。以降、野口博志、井田探、鈴木清順、中平康などのアクション・青春映画の助監督として活躍。1971年、ロマンポルノ第3弾『花芯の誘い』で監督デビュー。以後、1988年の『箱の中の女2』まで47作を撮った。その後、テレビドラマの演出やVシネマの監督を務め、2000年に12年ぶりの劇場公開映画『NAGISA なぎさ』を監督。2002年『女はバス停で服を着替えた』を最後に監督業を引退した。2月18日には『花芯の刺青 熟れた壷』が、新宿武蔵野館で上映。このほか、横浜シネマ・ジャック&ベティ、名古屋シネマテーク、京都みなみ会館、cinema KOBE、福岡中洲大洋劇場でも小沼監督作品を含む旧作を上映。※週刊ポスト2017年2月17日号
2017.02.09 16:00
週刊ポスト
大ヒット歌手・力士の増位山 紅白出演オファーあった
大ヒット歌手・力士の増位山 紅白出演オファーあった
 かつて相撲界では、人気の力士はたいていレコードを出していた。その代表格が、1977年にリリースした『そんな女のひとりごと』が130万枚の売り上げを記録した増位山太志郎だ。角界屈指の歌い手が、当時を振り返る。 * * * 子供の頃はコーラス部に入っていて、小学5年生の時にテレビ番組に出たこともあった。力士になる前は歌手になるのが夢だったね。 昔は福祉相撲やテレビ番組で力士が歌を披露する場面が結構あったし、地方巡業する際に「力士が歌ったり、野球をしたりするなら、興行を受けましょう」という契約条件もあったんだよね。取組以外の部分でも、お客さんを呼ぼうとする風習があった。 まだ前頭の頃、部屋の千秋楽パーティーで歌っていたら、小林旭さんの歌を書いたこともある文芸評論家の小島貞二さんが「そんなに好きならレコード出す?」といってくれたから、「出したいです」と即答したね。それで、1972年に小島さん作詞の『いろは恋唄』でデビューした。嬉しかったね。 歌は相撲にも活きたよ。ウチの親方は趣味を持ったほうが人間的にも幅が出るという方針だったし、歌っている時は相撲のことを考えないで済む。肩の力が抜けて、いい気分転換になった。 2枚目の『そんな夕子にほれました』は60万枚くらい売れたんだよね。それなのにレコード会社が潰れたから、テイチクレコードに移籍して、その時に初めて印税契約をした。そこからまた65万枚くらい売れた。キャンペーンもしてないのに、なんであんなに売れたのかよくわからないよ。 1977年の『そんな女のひとりごと』もミリオンヒット。翌年に日本有線大賞にノミネートされたんだよ。他にはピンク・レディーや山口百恵がいたね。放送日はちょうど膵臓炎で入院中だったから、テレビ局に「中継車を出すので、病院の外で歌ってください」といわれていてね。 でも、中継車が近くで起こった事件に回されて、歌えなくなった。結局、大賞は沢田研二の『ダーリング』に決まった。ベストヒット賞をもらえたけど、事件がなかったら大賞を獲れていたかもしれないね。 NHKの紅白歌合戦からもオファーがあったようだけど、相撲協会が断わったみたい。20年くらい後になって聞いた話だけどね。まあ、相撲あっての歌だから、当然だと思ったよ。 印税で部屋の力士や関係者50人くらいをハワイ旅行に連れて行ったね。幹部にはビジネスクラスを用意したな。今考えたら、失敗したなと思うけど(笑い)。あとは、ちゃんこ店を出す資金にしたよ。一時、相撲協会が親方や力士のレコード発売を禁止にしたから新譜を出せなくなったけど、定年退職して今また歌を出すようになった。その時は、妻が泣いて喜んでくれたよ。●ますいやま・たいしろう/1948年生まれ、東京都出身。大関・増位山大志郎の長男。父の反対を押し切って相撲界入りし、1967年初土俵、1980年大関昇進。現役時代の1972年に歌手デビュー。■撮影/藤岡雅樹 取材・文/岡野誠※週刊ポスト2017年2月10日号
2017.02.05 16:00
週刊ポスト
動員150万人、昭和スター総出演コンサートを黒沢年雄が語る
動員150万人、昭和スター総出演コンサートを黒沢年雄が語る
 観客動員数150万人突破の人気イベント「夢コンサート」。年間140回以上行われるステージには、昭和のスターが次々に登場し、まさに“中高年のフェス”といった感じだ。その魅力を出演者である黒沢年雄さんに語ってもらいました!【夢コンサートとは…】 1960年代~1970年代のヒット曲…だれもが口ずさめる曲をずらりと並べた、昭和の香りがたっぷりのコンサート。次から次へと登場するスターが、聴く人を若かったあの頃に引き戻してくれる楽しい空間だ。客層は50代以上の主婦層が多い。 平日の午後3時──。会場に足を踏み入れると、たった今、昼の部のフィナーレでお客さんに来場の謝意を伝えたばかりの歌い手たちが、小走りにロビーに駆け込んできた。 50代のおしゃれな女性。仲の良いグループだろうか、60代と思しき5人組の女性。70代のご夫婦…熱気で顔を上気させた人たちが、お気に入りの歌い手たちが迎えるブースに三重、四重の輪を作り、CD、オリジナルグッズに手を伸ばす。その光景は、AKB48やジャニーズのコンサートの会場と少しも変わらない。「夢コンサートに来るとね、みんな若返って、青春時代に戻っちゃう。苦しいことも、悲しいことも、全部忘れて、みんな笑顔で帰ってくれるんだよね」 ありがとう、またね。ひとりひとりと握手をしながら、黒沢年雄が嬉しそうにつぶやいた。「もともとはぼくの友人が、同窓会コンサートを立ち上げたのがスタートで。尾藤イサオさん、あべ静江さん、山本リンダさん、黛ジュンさん…とかとね。それが、夢グループ(註:夢コンサートの主催者)と一緒になったことで一気に大きくなって、全国をまわれるようになったんだよね」 蒔いた種が次々と芽を出し、花を咲かせた。「小林旭さんを中心にした、夢コンサート。1960年~1970年代のヒット曲を集めた、同窓会コンサート。昭和歌謡の黄金期を築いた、夢をいつまでも。小林幸子さんのコンサート…いくつあるのかわかんないくらいですよ(苦笑)」 指を折りながら教えてくれた黒沢が、途中で教えるのをやめてしまうほど、企画も、コンサートも増えている。──その理由は?「みんな弾けたいんですよ。自分の年を忘れたいし、もっと、もっと笑いたい。おもいっきり若返って、青春時代に燃えた歌を一緒に歌いたいんですよ。真面目な歌ばかりじゃなくて、たまにはぼくの、『時には娼婦のように』とかね、エロスを感じるような歌も聴きたいんだよ」 日本全国をまわり、年間140本を超えるステージに立つ黒沢はその熱を肌で感じている。「おかげでぼくも元気になっちゃった。がんの手術を8回もして、おれの人生もここまでかな…と思ったこともあったけど、今は絶好調(笑い)。青春、真っ盛りですよ」 思えば、昭和の時代には、だれもが口ずさめるヒット曲がたくさんあった。「大人から子供までね。でも今、そういう曲ってないでしょう!? だからこそ、夢コンサートなんですよ」 比叡山延暦寺で逆永代供養を済ませ、すでに戒名(英勝院智俊慈道居士)を持っている黒沢の願いは、「だれにも迷惑をかけずに、ひとり静かに去っていくこと」。しかし、夢コンサートがあるかぎり、その願いは、まだまだ叶いそうにない。撮影■平野哲郎※女性セブン2017年1月5・12日号
2016.12.24 16:00
女性セブン
【著者に訊け】卯月妙子氏 『人間仮免中つづき』
【著者に訊け】卯月妙子氏 『人間仮免中つづき』
【著者に訊け】卯月妙子氏/『人間仮免中つづき』/小学館/1300円+税 小学生のときに統合失調症を発症した卯月妙子さんは、以後、精神病院への入退院を繰り返してきた。2007年には歩道橋から飛び降りて自殺を図り、一命を取り留めたものの顔面が崩壊、右目の視力を失う。〈おいら〉と恋人〈ボビー〉との出会い、〈おいら〉が歩道橋から飛び降りるまでのいきさつ、その後の回復過程を描いたコミックエッセイ『人間仮免中』は大反響を巻き起こす。それから4年半。卯月さんが、ボビーとのその後を描いた待望の続篇『人間仮免中つづき』を発表した。〈北海道の、ある障害者福祉施設にお世話になったわたしはボビーと5年間、離れて暮らしました〉〈持病の統合失調症は、過去に例がないほど悪化しました。陰性症状に突入し、最後の2年間は寝たきりに近い状態でした〉 行きつけの飲み屋で知り合ったボビーと25歳年下の〈おいら〉。〈おいら〉の自殺未遂でも別れなかった二人だが、〈おいら〉の病気が悪化、いったん離れて暮らす選択をする。勤め先を退職し、〈もうじき古希〉のボビーが北海道にやってきて、二人が再び一緒に暮らし始めるところから漫画は始まる。 前より太った〈おいら〉が〈既に85キロ…〉と白状すると、ボビーは〈どっから見ても善人ですって、ツラになりやがってよ!!/俺、あなたの昔のヘンに妖艶だった顔より、今のほうが好きだなあ〉と笑い飛ばす。「私、押しかけ女房なんです。思いを告白して、ボビーのうちへ行った5日後には、タンスと電気釜と衣類一式、全部ヤマト運輸で運んで引っ越してきちゃった。会社から帰ってきたボビーは唖然として、ひとこと『いいタンスだな』って。もう逃げられないと思ったんじゃないですか(笑い)」 押しかけられたボビーは献身的に彼女の世話を焼く。それは北海道での同棲中も変わらない。ひどい寝汗を拭いたり、眠りにつくまで足を揉んだり。統合失調症についての知識を深め、〈おいら〉が〈頭が3つある犬〉の幻覚を見ても、糞尿を垂れ流しても驚かない。生き物を殺せず、〈ゴキブリも殺さないで飼っていい?〉という〈おいら〉に、驚きつつも〈んーまー別にゴキブリぐらいいいけど……〉というボビー。「ちっちゃいころから動物や虫が大好きで、うちじゅう、虫や動物だらけだったんです。保育園のころ先生たちがつけたあだなが『虫めづる姫君』でした」 二人はハエに〈小町〉と〈次郎〉という名前をつけていつくしむ。秋が来て、小町と次郎が死んだあと、小さいハエが飛んでいるのを見て〈どっかにウジが湧いてるんだ!!〉と命がつながったことを喜び、泣く二人。◆1日がまるで1年みたいな密度だよ 卯月さんはおじいちゃん子で、最初に覚えたのが石原裕次郎と浅丘ルリ子のデュエット「夕陽の丘」、高校のときは地域の老人会に入っていたという。ともに懐メロ好きで酒好き、年齢差を感じないボビーとの楽しい日々は、〈おいら〉が新しい治療薬を試みたとき、難しい局面を迎える。薬が原因の〈おいら〉の不調に、ボビーの年齢的な不調が重なったのだ。「このとき新薬に賭けたのは、陰性症状をどうしても抜けたかったから。本の担当さんを待たせ続けていたので、早くペンを入れたくて、一発逆転したくて、新薬の認可が下りたとき『よっしゃいける』と思っちゃった」 きまじめで、人一倍、気をつかう人らしいエピソードだ。そう言えば、前作が出たとき「卯月妙子さんが生きていてくれて、この漫画を書いてくれて本当によかった」と書評に書いたのは小泉今日子さんで、新作の帯にも推薦を寄せた。「ほんとにありがたいです。(前作への反響は)もう、何が起きてるんだろうという感じで。不謹慎ですけど、歩道橋から飛び降りた後、病院のトイレで初めて見た自分の顔があんまり面白くて。写メを友達にバンバン送って、『スライド見せてトークショーやればいいじゃん』って。そんなノリで書き始めた漫画なのに……」 現実の中で描くことが難しい幻聴や幻覚も、卯月さんは全部漫画にする。これらは、後でボビーさんに聞いて描くのだろうか。「いえ、ぜんぶ覚えていて、意識があります。ネーム(下書き)はボビーに見せるので、『もっとこうだった』と言われたらもちろん書き直しますけど」 喧嘩も、エッチの失敗も書かれているが、「小林旭みたいに描いてくれ」ということ以外、ボビーさんから注文がつくことはない。 卯月さんはふだん「卯月さん」と呼ばれるが、大事なことを伝えるときは「あなた」になり、「おい兄弟、きょうは寿司食うか?」と言うことも。怒ればそれが「小僧!」になる。『人間仮免中つづき』は、おとなの大恋愛漫画である。かけがえのない相手に出会えた喜びは凝縮され、作品のエピソードとなり、2年前に始めたという俳句にも託される。〈この暮らしは、そんなに遠からず終わるかもしれない──/だから、今いっぱい思い出作って、1日を楽しんで、1日がまるで1年みたいな密度だよ〉「ボビーは、自分が死んだら『人間仮免中おわり』を書け、って言うんです」【プロフィール】うづき・たえこ:1971年岩手県生まれ。20歳で結婚後、夫の会社が倒産、借金返済のためホステス、ストリップ嬢、AV女優として働く。過激なAVはカルト的な人気を得る。夫が自殺、10歳頃から患っていた統合失調症が悪化する。入退院を繰り返しながら舞台などの活動を続け、自伝的漫画『実録企画モノ』『新家族計画』を発表する。2012年に出版した『人間仮免中』が大きな反響を呼び、12万5000部のベストセラーに。2014年、東京芸術劇場で東日本大震災がテーマの作品を発表。170cm、A型。構成■佐久間文子※週刊ポスト2016年12月23日号
2016.12.16 07:00
週刊ポスト

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