大橋巨泉一覧

【大橋巨泉】に関するニュースを集めたページです。

主演のスター俳優たちを喰うほどの人気もあった俳優集団「ピラニア軍団」(イメージ)
大橋巨泉さんは「昭和史に残る偉人奇人」 接し方も“巨泉流”だった
 戦争の記憶をはっきり残し、成人してからは焼け野原からの復興と高度成長期のニッポンを牽引したのが「昭和ヒトケタ」世代だ。自らの力で前を向き、上を向いて生きていこうとした彼らは、後の世代にどんな教えを残したのか──。(文中一部敬称略)「見事な開拓、改革の人だった。昭和史に残るキテレツな偉人奇人です」。漫画家の黒鉄ヒロシがこう称するのは、『11PM』(日本テレビ系)、『クイズダービー』(TBS系)など数多の人気番組の司会を務めた大橋巨泉(2016年没、享年82)だ。「台本をテーブルに置いて堂々と見ながら喋ったのは、巨泉さんが最初。それまで台本は覚えるもので、画面のなかに映っちゃいけないものだった。でも巨泉さんは『なんでだめなんだ』と。今はみんなそれで助かってるでしょ。巨泉さんは恩人ですよ(笑い)」(黒鉄・以下同) 昭和9年に東京・両国で生まれ、早稲田大学中退後、ジャズ喫茶に入り浸っていたことからジャズ評論家、放送作家となり、司会業に転じた。『11PM』は“お色気企画の元祖”と呼ばれた一方、沖縄の本土復帰問題など硬派なテーマも取り上げた。競馬や麻雀の評論家としても活躍した。「当時、競馬や麻雀といえば博打そのもの。競馬新聞を電車のなかで広げたり、社会人が『麻雀に行く』と言ったりしたら白い目で見られた。それを“いい大人”の嗜みに変えたのも巨泉さんの功績です。ジャズだって不良の音楽だった。巨泉さんは文化史には書き落とされてしまうようなものを拾い、エポックメイクしたんですよね」 人との接し方も“巨泉流”だった。「最初はものすごく礼儀正しいの。下からくるから気を許していると、3日目には呼び捨てになる。『世界まるごとHOWマッチ』(毎日放送)だったかなぁ、突然石坂浩二さんを本名の“へいちゃん”(武藤平吉)って呼んだりね。それでいつの間にか“へいちゃん”が浸透してしまう。テレビの伝わり方を熟知していた」 黒鉄自身、番組中にその慧眼に舌を巻いたことがあるという。「クイズ番組でラスベガスがテーマになりそうだったとき、僕から“ラスベガスに詳しい”って気配が出たんだろうね。それを察した巨泉さんが『黒鉄くん、ラスベガス詳しいんだよね』って。ほんの0.01秒みたいなタイミングで言われてビックリしちゃって。『なんで?』って聞いたら『いや、目が』って。普通じゃない人ですよ」 2013年10月に中咽頭がんを発症し、3年後に帰らぬ人となった。「巨泉さんが最後に退院していたとき、寿司屋で偶然出くわしたんです。すごく痩せていたけど、『驚いたろう』って話す声は前のまま。寿司屋の職人に『前より少し小さくしてくれ。俺がここで寿司を喉に詰まらせて死んだら嫌だろう』って。死の話を自ら持ち出して笑いにしてしまう。改めて巨泉さんのセンスを見直しました」 元気だった昭和のテレビを象徴する人物だった。※週刊ポスト2021年7月30日・8月6日号
2021.07.22 07:00
週刊ポスト
巨泉さん死去5年 クイズ番組の基礎を作った『クイズダービー』
巨泉さん死去5年 クイズ番組の基礎を作った『クイズダービー』
 昨今、さまざまなクイズ番組が話題を集めているが、その「基礎を作った」といわれるのが、大橋巨泉さん(享年82)が司会を務めた『クイズダービー』である。巨泉さんが亡くなって5年となる今、後のクイズ番組を変えていったという『クイズダービー』の凄さについてコラムニストのペリー荻野さんが振り返る。 * * * 7月12日に没後5年となる大橋巨泉さんの代表番組『クイズダービー』が、TBSチャンネル2で再放送されている。 すぐにネタが古くなるクイズ番組の再放送は少ないし、1976年から1992年まで放送された古い番組である。しかし、今、見ても十分面白い。そしてよく見ると、この番組が、後のクイズ番組を変えていったということがよくわかる。『クイズダービー』は、クイズに競馬のギャンブル要素を取り入れ、二人一組の出場者は直接クイズに答えることなく、競走馬に見立てた五人の回答者から正解を出しそうな人を選んで持ち点3000点を賭けていく。回答者には、それぞれ独自の倍率(オッズ)がついていて、めったに当たらない回答者には最後の問題で20倍くらいの倍率もつくため、大逆転も可能にした。出場者は得点の分の現金を上限10万円まで受け取ることができる。 こういう娯楽性も新しかったが、注目したいのは、回答者の個性を引き出し、キャラクター定着化させ、視聴者に愛されるよう司会者が語りかけたことだ。 体から水分が出ないほど減量をしたボクサーが、もっと減らしたいときにすることを問われたクイズで、自信満々に「献血」と書いた1枠の篠沢秀夫教授、「歌う」と書いて自分で笑い転げる2枠の井森美幸。彼らは「珍回答」を連発し、観客や視聴者を大いに笑わせた。正解しないこと、トンチンカンな答えは番組的にプラスになる。これは大きな「発見」だった。 後にフジテレビで『平成教育委員会』で日本三景を答える問題で「小椋佳、谷啓、真梨邑ケイ」と応えた渡嘉敷勝男(『クイズダービー』には出場者として出て10万点を獲得したことがある)や『クイズ!ヘキサゴンⅡ』(フジテレビ系)のおバカキャラの活躍、現在も特番で引き継がれる『さんまのSUPERからくりTV』(TBS系)のご長寿早押しクイズコーナーなどは、たったひとつの正解より予想もつかないたくさんの誤答のほうが面白いということを見せつけたのだった。『クイズダービー』には、他にも、驚異的な正答率を誇り、巨泉から「宇宙人」と呼ばれたはらたいら、三択問題に強く「三択の女王」と呼ばれた竹下景子など、ニックネームごと親しまれた回答者がいた。 はらたいらの博識は、『クイズプレゼンバラエティーQさま!!』(テレビ朝日系)などで見るやくみつるやインテリ芸人たちに通じるものがある。番組に出始めた頃、大学生だった竹下景子とともに「クイズダービー」で知的な回答ぶりを見せていた宮崎美子は、今も「クイズの女王」と呼ばれ、クイズ番組には欠かせない存在だ。 巨泉さんに話を聞いた時、この番組が当初、オッズのつけかたも番組進行も違って4パーセント程度の視聴率しかとれず、思い切った変更を経て、視聴率40%にまで達したと知って驚いた。そして、司会者が「前に赤坂のサウナで会いましたよね」などと回答者や出場者と雑談するという「クイズトークバラエティ」の要素も意識して入れていたというのも、放送作家の巨泉さんらしいなと感心した。「番組に責任を持ってきた」「自分の番組にしか出ない」と言い切る巨泉さんは、『クイズダービー』の冒頭でも「巨泉のクイズダービー」と声を出していた。再放送でもその勢いを感じる。革新的な番組とは、そういうものなのだ。
2021.07.10 16:00
NEWSポストセブン
高田文夫氏が少年時代から憧れ続けた“放送作家第一世代”
高田文夫氏が少年時代から憧れ続けた“放送作家第一世代”
 放送作家、タレント、演芸評論家で立川流の「立川藤志楼」として高座にもあがる高田文夫氏が『週刊ポスト』で連載するエッセイ「笑刊ポスト」。今回は、放送作家〈第一世代〉である永六輔さんと大橋巨泉さんが20年以上前に共演した番組の録画を見て思い出したことなどについてお送りする。 * * * 七夕は私の心の師、永六輔の命日。亡くなってもう4年も経つのだ。若い放送作家が1枚のDVDを持ってきて「さすがにこれは見てないでしょう。1997年のNHKのBS。3時間の生放送で永さんが司会の特番“夢でワイドショー”。亡くなったばかりの渥美清特集。大橋巨泉をゲストに丁丁発止やりあってます。60代半ばの2人のやたら元気なこと」 永六輔、巨泉の頭の回転の速さと芸ごとへの造詣の深さに圧倒された。そのくせ毒が効いててユーモラスで……かつてはこういう良質な大人のバラエティがあったなァと後輩として反省。 思えば小さい頃はラジオばかりで、たしか脚本家とか構成屋とか呼ばれていた。テレビが来て昼間毎日10分間やる『おとなの漫画』が大好きで、オープニング、ハナ肇がフリップをめくっていき「おとなの漫画」「出演 ハナ肇とクレージーキャッツ」「作・青島幸男」と言う。 クラスの皆はクレージーに夢中だったが、私はこの「作」という言葉に敏感に反応した。「作」ということはクレージーよりも面白くて、作ることのできる人なんだと理解した。職業を調べたら“放送作家”。ヒゲをはやして一日中、机にむかっている“作家”(文豪)のイメージの上に“放送”がついている。そうかそうか、スタジオからスタジオへ飛びまわる作家なんだと分かった。後日、字の通り“送りっ放し”の作家でいいと言われた。 小学校の卒業文集には「大きくなったら青島幸男になります」とハッキリ書いた。テレビの創生期にはあらゆる才能を持った放送作家が現われ、東京の文化度の高い我々を夢中にした。お笑い界では今“第七世代”が有名だが、我々放送作家業界では昔から、〈第一世代〉テレビを創った人達が青島幸男、永六輔、大橋巨泉、前田武彦、野末陳平、塚田茂ら。〈第二世代〉そのテレビを見て育ったのが私、景山民夫、高平哲郎、喰始。〈第三世代〉今をときめく宮藤官九郎、高須光聖、鈴木おさむ達であろう。私は放送が大好きで大学も日大芸術学部の放送学科へ進んだ。キチンとブロードキャスティングを学んだ放送学士である。 先輩の方達はみんな言う、“タレントより面白くて、コントもできてDJもやる。その合間にチョコチョコと台本も書く”、これが放送作家の定義だそうな。エンタのシンガーソングライターってことだろう。表も裏もってことだ。今の放送作家って名乗ってる連中なぞ、チョコチョコっとネットで調べて無言で渡すだけ。そこにマスコミュニケーションはない。 永六輔と巨泉の特番を見てしみじみ東京の“インテリ八ッつあん”と“熊さん”が喋ってるなァと思った。基本は人間が大好きなのだ。■イラスト/佐野文二郎※週刊ポスト2020年7月31日・8月7日号
2020.07.31 07:00
週刊ポスト
宮崎美子が振り返る『クイズダービー』とはらたいらの凄さ
宮崎美子が振り返る『クイズダービー』とはらたいらの凄さ
 競馬好きの司会者・大橋巨泉の発案で生まれた『クイズダービー』(TBS系、1976~1992年、最高視聴率40.8%)からは、“キャラの立ったクイズ王”が数多く生まれた。 番組の一般参加者は5人いる解答者の中で「誰が正解するか」を予想して自分の持ち点を賭ける。 問題ごとに解答者に倍率が設定されるが、正解率の高い漫画家のはらたいらは倍率が低く、珍解答を繰り出す学習院大学の篠沢秀夫教授は倍率が高いことが多かった。「第1問ではらさんに持ち点すべて(3000点)を賭けようとするゲストがいたり、倍率が2倍になる最終問題で『篠沢さんに全部!』と持ち点をつぎ込み、逆転を狙おうとする参加者がいたり、その駆け引きが面白かった。“この問題でその人に賭けちゃダメだよ~”なんてツッコミを入れながら、家族みんなで見てました」(54・会社員) はらたいらのほか、正解率が高かったのが、東京女子大学在学中だった女優の竹下景子だ。「3択問題」に滅法強く、“3択の女王”と呼ばれた。 いまでは数々のクイズ番組の常連となった宮崎美子が“クイズの女王”となったきっかけも1981年からレギュラー解答者になった『クイズダービー』だ。宮崎が振り返る。「正解を出せるのが一番ですが、“答えがわからない時にいかにユニークな間違え方ができるかが大切”と、出演者の心得を教えられました。 はらたいらさんは本当に凄かった。誰も答えられなかった問題に正解した後、『どうしてわかったんですか?』と聞いたら、『先月号の月刊住職に載ってた』とすました顔でおっしゃったんです。そこまで読んでいたのかと驚きました。『クイズダービー』は出演者全員が解答できて、お互いの問題に感心したり笑い合えたことが楽しかったですね」【画像のクイズの答え】Q1:離婚できるように、Q2:ヒノキ、Q3:ハイヒール、Q4:虹、Q5:歯ブラシ※週刊ポスト2020年5月8・15日号
2020.05.08 07:00
週刊ポスト
竹下景子が語る「お嫁さんにしたい女優」の呪縛と感謝
竹下景子が語る「お嫁さんにしたい女優」の呪縛と感謝
 時代ごとに輝く女優たちは、「お嫁さんにしたい」相手として男たちに愛されてきた。『男はつらいよ』などで活躍した竹下景子(66)もその一人だ。 1977年2月26日放送の『すばらしき仲間』(TBS系)で、元運輸大臣の荒船清十郎氏がポロッと漏らした一言に、メディアが一斉に飛び付いた──。 荒船氏と稲葉修氏の2人の大物政治家との鼎談に呼ばれた23歳の女子大生は母親の着物を借り、気合いを入れて収録に臨んだ。竹下は当時を振り返ってこう語る。「ほとんど台本のないフリートークの番組で、人生の大ベテランが丁々発止でお話をされていました。私は弁舌巧みなお2人の中に割って入れるわけもなく、進行も座持ちもできませんでした。情けなくて、ボロボロ泣きながら帰ったのを覚えているんですね。その時に荒船さんが『息子の嫁にしたいようなお嬢さんですね』っておっしゃったんです。リップサービスだったと思うんですよ」 清楚な外見に加え、東京女子大学に通い、日本舞踊も茶道も習得していた竹下は“お嫁さんにしたい女優”の称号にピッタリだった。4か月前からレギュラー解答者になっていた『クイズダービー』(TBS系)では、司会の大橋巨泉がそのフレーズを頻繁に使用。雑誌で紹介される際も枕詞のように付いて回り、翌年には『結婚してもいいですか』で歌手デビューし、イメージが定着した。「まだ20代前半で、見るもの全部が目新しいですし、日々のお仕事が楽しいので、本人は家庭に落ち着くことなんて全然考えていませんでした(笑い)。ただ、ドラマや映画でも、真面目な学生や良家のお嬢さんのような役柄が続きました」 本来、女優は作品ごとに異なる人格を演じる。そこに醍醐味を感じ、職業として選択した竹下は、やや不満も感じていたという。「ある一面だけで、あたかもその人全部を表わしているかのような言い方をされる窮屈さもありました。人って、誰でも多面体ですからね。でも、すごく良いフレーズなのに、あまりに不遜ですよね」 29歳の時、転機が訪れる。単発ドラマ『十二年間の嘘 乳と蜜の流れる地よ』(TBS系)で風俗嬢役に挑戦。この作品が高視聴率を叩き出し、以降「モモ子シリーズ」として15年で8本放送され、代表作の一つとなった。「お話をいただいた時に『イメージチェンジできる!』と嬉しくて嬉しくて。事務所が心配しなかったといえばウソになるでしょうね。でも、デビュー間もない頃から起用してくださった市川森一さんの脚本で、信頼関係もありましたし、覚悟を決めて挑みました」 並行しながら『男はつらいよ』のマドンナ役を務めるなど清楚なイメージも保ったまま、1984年に自らのプロポーズで15歳年上の写真家・関口照生と入籍。「結婚して“お嫁さんにしたい女優”のフレーズもなくなり、肩の荷が降りた面もあるかもしれません。私自身、良妻賢母になれないと感じていました。そんな中、夫は『いつも帰りを待ってる奥さんじゃないほうがいい』と仕事への理解があったので助かりました。 結婚すると、社会的に仕事か家庭か二者択一を迫られる時代でしたけど、幸いにも、妻を演じる機会が増え、『クイズダービー』も産休後に復帰させてくれました。今こうしてお仕事を続けていられるのも、元を辿れば“お嫁さんにしたい女優”というイメージのおかげ。素直に感謝しています」【プロフィール】たけした・けいこ/1953年、愛知県生まれ。NHK『中学生群像』を経て、1973年にNHK銀河テレビ小説『波の塔』で本格デビュー。映画『男はつらいよ』のマドンナを3度務めるなど女優として活躍。主演ドラマ『70才、初めて産みますセブンティウイザン』(BSプレミアム、日曜10時~)が放送中。■撮影/関口照生※週刊ポスト2020年4月24日号
2020.04.16 07:00
週刊ポスト
在宅医を見極める必要がある
利益が得やすい在宅医 儲け優先でノウハウ不十分な例も
「畳の上で死にたい」という言葉があるように、住み慣れた家で天寿を全うしたいと考える人は多い。実際、厚労省の調査によれば、7割以上が「痛みがなく、意識もはっきりしている状況下では自宅で死にたい」と回答している。 それに同調するように、国を挙げて推奨されている「在宅死」だが、本当に幸せなのだろうか。 看取りに関する著書を多く持つ、早期緩和ケア大津秀一クリニック院長の大津秀一さんはこんな話をする。「在宅のいちばんのメリットは自分のリズムで生活できること。もちろん、すぐそばに家族がいるという安心感もあります。亡くなる数日前からは、『せん妄』という意識の障害を起こして落ち着きがなくなったり、幻覚を見たりするなどの症状が表れることが多いのですが、在宅のかたは入院のかたと比べ、それが軽くなる傾向がある印象です。結果として亡くなる前の苦しみが軽くなるように見える側面があるのです」 在宅医療のエキスパートで多くの看取りを行ってきた長尾クリニック院長で医師の長尾和宏さんもこう話す。「自然死、平穏死を迎えられるのは圧倒的に在宅です。反対に、大学病院などでは99%無理だといえる。なぜならば、医療が人の最期を苦しめている現状があるからです。よかれと思って続けている延命治療でも、ある時点からは余計な苦しみを生みかねないものです。 たとえば、終末期に食べられなくなるのは自然なことなのに、そこに点滴で栄養を入れてしまえば、呼吸が苦しくなったり、腹水や胸水がたまる。すると、さらに水を抜くためのチューブをつなげられてしまう。医療が患者さんを苦しめるというのは皮肉なものです」 ただし、在宅医療はそれに通じた医師やスタッフ、そして看取りに寄り添える理解ある家族がいるケースにおいてのみ可能だ。前出の大津さんが言う。「家で苦痛が少なく亡くなるためには、家族の手助けが重要な位置を占めます。いざ在宅医療を始めてみても、想像していた状況と異なり、自宅で過ごすことにストレスを感じるようになった、というのはよく聞く話です。一方で、ひとり暮らしだからといって在宅が絶対に無理ということはなく、自宅で過ごしたいと強く希望するならば、在宅を選ぶことも可能。これはケースバイケースになってきます」 ひとたび在宅医療を始めたとしても、家族が容体の変化に慌ててしまい、元の木阿弥となってしまうこともある。「様子がおかしい、と動揺した家族が救急車を呼んでしまうことがある。すると、搬送先の病院で『延命の希望あり』としてさまざまな医療処置が施され、何本ものチューブにつながった最期を迎えるケースもあります。 また、最近は在宅医療を実践する医師が増えていますが、病院の医療を自宅に持ち込むだけの先生もいる。患者さんからすれば、平穏死に理解ある医師を選べるかどうかがポイント。方針をよくチェックしておくべきでしょう」(長尾さん) たとえば、2016年にがんで亡くなったタレントの大橋巨泉さん。彼も在宅医療を選択したが、初めて訪れた在宅医から、こんな質問をされ、ショックを受けたと生前連載していた雑誌のコラムで明かしている。《在宅介護の院長は、いきなりボクに「大橋さん。どこで死にたいですか?」と聞いてきた。ボクは、すでに死ぬ覚悟はできていたのだが、「えっ?俺もう死ぬの?」とぼう然とした》 大橋さんはその日から、わずか約3か月後に帰らぬ人となったという。がん治療では心理面のケアも大きなパーセンテージを占めるはずだ。それなのに、と考えてしまう。前出の大津さんが、このやりとりを評して言う。「双方の意見を聞いていないのではっきりしたことは言えませんが、それぞれの気持ちのすれ違いを感じるやりとりだと思いました。 患者さんとの接し方は大事。大橋さんは、いきなり『どこで死にたいですか』と聞かれたことで大きなショックを受けたということですが、唐突だったのかもしれません。本来なら『どう過ごしていきたいですか』などと聞きながらともに考えてゆくのが大切。医師のコミュニケーションスキルが試される場面ですね」 こういった“らしくない”在宅医が存在するのはなぜか。「医療費削減のため、現在は国が在宅医療を推奨しており、携わる医師がしっかりした診療報酬を得られる制度になっています。つまり、今の医療機関が厳しい経営状況の中、在宅を行えば相対的には利益が出しやすいわけです。看取りのケアが得意でなく、患者さんとの接し方が充分とはいえない医師なども参入しているのが現実なのです」(大津さん) 今後は、さらに在宅医が増えるとみられており、医師やスタッフの見極めがますます必要になってくるわけだ。「がんの場合は、痛み止めを『持続注射』してくれるか、痛みが強くなった際に患者さんがボタンを押せば薬を注入できる鎮痛法を行ってくれるかどうかなど、どんな処置をしてくれるかは具体的に確認した方がいい。また、いよいよ最期が迫った時に鎮静を行えるのかは重要。 緩和ケア病棟やホスピス、在宅緩和ケアで知られる医療機関での勤務歴がある医師かどうかもチェックした方がいいと思います」(大津さん)※女性セブン2019年10月10日号
2019.09.29 07:00
女性セブン
「クイズダービー」はいくつもの流行語を生んだ
クイズダービー 正解率低かった篠沢教授が人気者になったワケ
 いまやテレビのレギュラー番組が視聴率40%を記録するなどということはほとんどなくなったが、1970~1980年代には、そんなお化け番組がいくつもあった。そのうちのひとつ、5人の解答者に、出場者が持ち点を賭けるという競馬スタイルの『クイズダービー』(1976~1992年、TBS系)は、開始当初こそ視聴率は低迷したが、1年後には視聴率30%を超え、最高視聴率40.8%を記録する人気番組となった。プロデューサーを務めた副島恒次氏がこう語る。「開始直後は複雑なルールの説明に時間がかかり、視聴者がついてこれないばかりか、司会の大橋巨泉さんが最も得意とするアドリブトークが発揮できずに苦戦しました」 解答者を6人から5人に、出場者を4組から3組にするなど改良に改良を重ねたのが結果につながった。成功の秘訣を「出演者やスタッフみんながあたかも神輿を担ぐようにしていたから」と副島氏は分析している。「番組スタートに際し、広告代理店や作家陣、巨泉さんも含め、数十人で毎週、ああでもない、こうでもないと番組をともに作り上げていきました」(副島氏) さらに、スポンサーも積極的に番組作りに携わった。同番組はロート製薬の一社提供。一般的にスポンサーは出資だけの存在だが、ロート製薬の広告部長をはじめ、担当者が大阪から駆けつけ、セットの配置から問題の内容まで、細かな部分まで意見を述べたという。「彼らは『私たちも番組スタッフの一員なんです』と言っていました(笑い)」(副島氏)◆間違いに個性を見出したのがヒットの要因 バラエティ豊かな解答者を揃えたことも魅力のひとつ。正解率7割を誇ったが、本番が終わると胃が痛くなっていた漫画家・はらたいらや、「間違いも上品でいいじゃないか」と、とぼけた表情でユニークな解答を披露する学習院大学教授の篠沢秀夫、カンのよさと知的なかわいさを持つ竹下景子は当時の政治家が「理想の花嫁」と語るほど人気となり、長年レギュラーを務める番組の顔になっていった。 それまでにない面白い問題制作を心がけていたが、ヒットの要因は別にあると副島氏は言う。「番組を始めて分かったことは、正解には個性がなく、間違った時にその人の個性が出るということ。正解率のあまりよくない篠沢教授の人気が高かったのもそのためです。クイズそのものより、巨泉さんが解答者と楽しそうにしていたトークが、お茶の間に広く受け入れられた要因だったと思っています」(副島氏)●取材・文/戸田梨恵、小野雅彦※週刊ポスト2019年8月16・23日号
2019.08.17 07:00
週刊ポスト
岡田圭右、クイズ番組で猛者を切り盛りする名司会術と品位
岡田圭右、クイズ番組で猛者を切り盛りする名司会術と品位
 松本人志、伊集院光、有田哲平、有吉弘行……名だたる芸人たちがテレビやラジオで「面白い」と公言する番組がある。脳トレ効果抜群の『クイズ! 脳ベルSHOW』(BSフジ、月~金曜22時台)だ。ますだおかだの岡田圭右と川野良子アナが司会を務め、毎回4人の解答者の顔触れも魅力のひとつになっている。「『芸能人図鑑』を作るイメージで、40~80代の“昭和のスター”に依頼しています。最高齢は、当時89歳の三遊亭金馬さんでした」(小沢英治プロデューサー) 普段、地上波のクイズ番組ではお目にかかることの少ない面々を毎回のように揃える。プロレスラーの藤原喜明(70)が収録中にウイスキーを飲み始め、隣の席にいる安達祐実の母・安達有里(61)に突然キスをするハプニングもあった。「あれは……ご覧いただいた通りです。それ以外何もございません(笑い)」(岡田) クイズ番組初出演の著名人が多く、タブーである白紙解答は当たり前。早押しでも膝の上に手を乗せ、ゆっくり問題を聞く。「ボタンの上に手を置いても疲れて力が抜け、いつの間にか押している人もいます」(岡田) 制作陣が知恵を絞って作る問題は、すぐに解けるほど簡単ではなく、かといって難し過ぎることもない。絶妙な塩梅のクイズが出題される。「4班に分け、それぞれ異なるレベルの問題を作ります。半年に一度くらいのペースで新タイプのクイズも入れ新陳代謝を図っています」(演出の丸林徳昭氏) 当代随一の芸人仲間が「岡田が生き生きしている」と声を揃えるように、昭和の猛者を切り盛りする司会が評判だ。1日5本撮りの収録は約11時間に及び、昼以外の休憩は各収録合間の10分間のみ。岡田のテンションは最後まで落ちない。「解けない問題が続いてしょんぼりしている解答者には、岡田さんはこれでもかとヒントを出して正解に導く優しさがあるんです」(川野アナ) フリーアナウンサーの徳光和夫氏(78)も、同番組の大ファンで、ほぼ毎日見ているという。「クイズ番組の司会者というのは解答者に優劣をつけてしまいがちですが、分け隔てなく接する岡田さんの進行には品位を感じるんです。解答の開け方も絶妙で、私も『クイズダービー』の司会を大橋巨泉さんから受け継いだ時に苦労したのでよくわかります。先に不正解の解答を開けて、最後に正解を出すオーソドックスなやり方だけでは視聴者も飽きてしまうものですが、岡田さんの開け方やテンポの良さは巨泉さんに近いです。 クイズの難易度も絶妙で、簡単ではないけど、よく考えれば解ける。閃いた時は長嶋茂雄の逆転3ランを見たような喜びに浸れる(笑い)。これまで2回出演させてもらいましたが、歌番組に40年以上関わったのに、ヒット曲の歌詞を埋める問題ができなくて悔しい思いをしました。次回は『正解者と同じ答え』と書きます(笑い)」 岡田が心掛けているのは、どんなことなのか。「解答者にテンションを上げてもらうために、元アスリートなら『選手』と呼びます。元巨人の川相昌弘選手に『クイズは苦手ですけど、スクイズは得意です』とコメントしてもらったように、普段見せない一面を引き出すのが自分の役割だと思っています」(岡田) かくして誰もが安心して観ることのできるクイズ番組として好評を博している。※週刊ポスト2019年5月17・24日号
2019.05.10 07:00
週刊ポスト
吉田照美が語る終活「若い頃より加減せず好きなことをすべし」
吉田照美が語る終活「若い頃より加減せず好きなことをすべし」
 グラビア写真界の第一人者、渡辺達生氏(70)が“人生最期の写真を笑顔で撮ろう”とのコンセプトで立ち上げた『寿影』プロジェクト。渡辺氏は、自然な笑顔を引き出すべく、撮影する人に「一品」を持ってきてもらって、それにまつわるエピソードを聞きながら撮影する。 フリーアナウンサーの吉田照美(68)が持ってきたオランダの印象派画家の絵画は、吉田氏が多くを享受させてもらったと語る憧れの人、大橋巨泉氏から贈られたもの。「絵が趣味の僕は、レオナルド・ダ・ビンチとピカソに挟まれて微笑む巨泉さんの肖像画を描いて贈ったんです。喜んでくれたけど、『俺、ゴッホのファンなんだよな』と言われて(笑い)」 この絵はそのお礼。今も大切に飾っているが、吉田氏の絵も、「巨泉さん亡き後、自宅でテレビのインタビューを受ける奥様の後ろに掛けてあり感激でした」 髪は金髪。ハゲ隠しと謙遜するがよく似合っており、古希前とは思えない若々しさを醸す。「僕の中で終活は東日本大震災から始まった。今はたまたま生かされている感じがして、生へも物へも執着がなくなった。同時に、若い頃より加減せずに好きなことをすべしと」 その言葉通り、今年は渾名のロバと68(ロバ)歳に因むB級映画『ロバマン』の主演に挑む。「馬鹿やっても面白く生きたい」【プロフィール】よしだ・てるみ/1951年、東京都生まれ。フリーアナウンサー。早稲田大学卒業後、文化放送入社。自身の名を冠した帯番組5つを36年半担当するなどの人気パーソナリティー。4月26日~5月19日、新宿「Bギャラリー」で絵の個展開催。◆撮影/渡辺達生、取材・文/スペースリーブ◆小学館が運営する『サライ写真館』では、写真家・渡辺達生氏があなたを撮影します。詳細は公式サイトhttps://serai.jp/seraiphoto/まで。※週刊ポスト2019年4月12日号
2019.04.06 07:00
週刊ポスト
津川雅彦さん 仕事も遊びもトコトンやる人だった
津川雅彦さん 仕事も遊びもトコトンやる人だった
 平成最後の年、おしどり夫婦として知られた大女優と名優は、闘病の末に亡くなったあとを追うように4か月違いでこの世を去った。●朝丘雪路(女優、享年82) 1952年に宝塚歌劇団に入団、月組の娘役として活躍。1955年の退団後は女優や司会など活動の場を広げ、1968年から大橋巨泉のアシスタント役を務めた『11PM』(日本テレビ系)ではお色気たっぷりの軽妙なやり取りで絶大な人気に。 晩年はアルツハイマー型認知症を発症、2014年に長女で女優の真由子がプロデュースしたミュージカルに夫・津川雅彦さんとともに出演したのを最後に芸能活動を休止していた。4月27日に死去。●津川雅彦(俳優、享年78) 祖父は映画監督・牧野省三、父は俳優・沢村国太郎で、兄の長門裕之も俳優という芸能一家に生まれ育つ。1956年に『狂った果実』で映画デビューし、一躍人気俳優に。『ミンボーの女』(1992年)など伊丹十三監督の作品に数多く出演する一方、自身もマキノ雅彦名義で映画監督を務める。 2013年に妻・朝丘雪路さんが闘病生活を始めると、献身的な介護を続けていた。妻の死を追うように、8月4日に他界した。 津川さんが東條英機を演じて第22回(1999年) 日本アカデミー賞・優秀主演男優賞を受賞した作品『プライド 運命の瞬間』の伊藤俊也監督が、撮影時の思い出を語った。「津川さんは台本に加筆修正するという噂があったので、1998年公開の映画『プライド 運命の瞬間』での最初の顔合わせの日は喧嘩腰で臨みました。案の定、2時間半にわたって侃々諤々の議論になりましたが、終わった瞬間わかり合えたと感じました。もちろん台本の直しはありません。打ち上げでは京都祇園でお座敷遊びをして、総勢50人分をご馳走してくれました。仕事も遊びもトコトンやる人でした」※週刊ポスト2018年12月21日号
2018.12.18 07:00
週刊ポスト
「ウルトラ…」「100人に…」「マジカル…」クイズ番組の歴史
「ウルトラ…」「100人に…」「マジカル…」クイズ番組の歴史
『クイズプレゼンバラエティーQさま!!』(テレビ朝日系)や『東大王』(TBS系)、『ネプリーグ』(フジテレビ系)などクイズ番組が人気だ。 日本におけるクイズ番組のはしりは1953年に放映を開始した『ジェスチャー』(NHK)だ。答えとなる単語を解答者の仲間が体の動きのみで表し、解答者が時間内に当てるという簡単な内容だった。 テレビの普及率が上がり、番組の種類も増えるにつれ、1961年の『ズバリ!当てましょう』(フジテレビ系)、1969年の『ベルトクイズQ&Q』(TBS系)といった人気クイズ番組も増えてゆく。テレビ解説者の木村隆志氏が言う。「この頃のクイズ番組出演者のほとんどが一般視聴者でした。当時は今のように海外旅行は誰にでもできた時代ではない。視聴者は海外旅行など憧れの高額賞金の獲得を夢見てクイズ番組に参加した」 視聴者たちの欲望を満たすため、賞金額や賞品はどんどん値上がりしてゆく。その頂点が、1970年に放映された『クイズ・キングにまかせろ!』(フジテレビ系)で出品された約1000万円の高級マンションだった。しかし、このあまりに豪華すぎる賞品は「射幸心を煽る」として国会問題にまで発展し、結果、賞品や賞金の値段は100万円以内に定められた。 それでも、視聴者のクイズ熱は一向に収まらなかった。「あるあるある」のかけ声でおなじみの視聴者参加型クイズとして大きな人気を集めた関口宏司会の人気番組『クイズ100人に聞きました』(TBS系・1979~1992年)でナレーターを務めた橋本テツヤ氏が振り返る。「あのかけ声は、演出ではなく会場の盛り上がりから自然発生的に生まれたものだった。それだけ盛り上がったのは、『100人に聞きました』が一般人100人に対して行ったアンケートの結果上位を推測して解答するというルールだったため、知識がなくても想像力を働かせれば正解できる斬新さがあったから」 参加者の中から次第に圧倒的知識をもって数多のクイズ番組で活躍するクイズ王が現れるようになる。 名だたるクイズ王を幾多、生み出してきたのは「ニューヨークへ行きたいか?」の名台詞で一大旋風を巻き起こした『アメリカ横断ウルトラクイズ』(日本テレビ系・1977~1998年)だった。「海外旅行がクイズ番組の優勝賞品だった時代に、わざわざ出演者をアメリカ本土まで連れて行き、ただただクイズを行うという手法はエポックメイキングでした」(木村氏)◆「クイズ王」が振り返る「アメリカ横断ウルトラクイズ」 そのスケールの大きさが視聴者の心を掴み、最高視聴率は34.5%をたたき出した。数字の上昇とともに、強者たちが番組に集結し、しのぎを削った。第15回大会の優勝者で、その後も『クイズ$ミリオネア』(フジテレビ系)などさまざまな番組で活躍した、元祖クイズ王・能勢一幸氏が言う。「小学生のとき、『第3回アメリカ横断ウルトラクイズ』を見て次々にクイズに正解してゆく大人たちの格好よさに憧れて、いつか自分も出場したいと思うようになりました。だからいざ自分が『ウルトラクイズ』の舞台に立ったときは感慨深かったです。だけどそこでの戦いは壮絶で、途中、ドミニカ共和国ステージで最後に私と対戦相手の競り合いになったとき、相手の早押しハットが先に立ったんです。あのときもうダメだ、と思った瞬間に頭の中でこれまでの記憶が駆け巡ったことを鮮明に覚えています。そんな激戦を経て優勝したのは22才のとき。以降、クイズ王と呼ばれるようになりました。例えるなら五輪に出てメダリストになったのと近い感覚です」 クイズ王たちによって、クイズ番組の“地位”が高まると、「出演して答えられないとイメージが悪くなるから」と出演拒否していた芸能人も出演するようになる。「はらたいらさんに3000点」でおなじみとなった大橋巨泉司会の国民的番組『クイズダービー』(TBS系・1976~1992年)にレギュラー出演していた女優の長山藍子(76才)はそのはしりだった。「女優としてのキャリアは積んできましたが、バラエティーへの出演は初めてでした。最初はなかなか正解できなかったから不安でした。ファンからも『長山さん、全然当たらないですけど大丈夫なんですか?』と聞かれたこともありました。だけど一緒に出演していた篠沢秀夫学習院大学教授の『クイズの結果と頭の良し悪しは関係ないということをぼくが証明している』というユーモアたっぷりのお言葉に励まされました」 以降、石坂浩二が出演した『世界まるごとHOWマッチ』(TBS系・1983~1990年)など芸能人参加型のクイズ番組が増えてゆく。「芸能人の参加に伴い、クイズの内容も、頭の良さや知識を競うものから発想力や瞬発力を問うものに変化し、バラエティー色が強まった」(前出・木村氏) その中でも、当時芸能人たちがこぞって出演したがった伝説のクイズ番組がある。 常時30%近い視聴率を記録した『マジカル頭脳パワー!!』(日本テレビ系・1990~1999年)だ。名物クイズとなった「マジカルバナナ」は流行語になるほど、老若男女問わず、誰もが夢中になった。 司会を務めた板東英二(78才)が振り返る。「1つの単語から次の単語を連想する『マジカルバナナ』ほか、番組オリジナルのクイズはどれもリズムとテンポを大事にしていました。5才の子供でも理解できる非常に単純なクイズだった半面、頭の柔らかさや発想力がないとうまく解答できない。だから、東大卒の政治評論家である俵孝太郎が正解できない問題をタレントの所ジョージが易々と答えられることもあった。人はそれぞれ違う個性や発想があることがクイズを通してわかるというのも、受け入れられた点だと思います」※女性セブン2018年5月31日号
2018.05.21 07:00
女性セブン
細川ふみえ他、B90超グラドルは“1967年の呪い”晴らしたか
細川ふみえ他、B90超グラドルは“1967年の呪い”晴らしたか
 1967年の呪い──。日本人が“バスト90センチ”を誇れるまでの歴史を語る時、この年の出来事は欠かせない。『巨乳の誕生』(太田出版)の著者である安田理央氏が振り返る。「アメリカのストラスマン博士が『バストサイズと性格および知能の関係』で、『86センチ130、91センチ100、102センチ80』とバストが大きいほど知能指数が下がると発表。日本でも取り上げられ、医師や博士も賛同したことで、この説が一気に広まります。 大橋巨泉が朝丘雪路の胸を『ボイン』と表現したのも同年。また、ファッションモデルのツイッギーが10月に来日し、スレンダーな体型に憧憬を抱く女性が急増し、以降“バスト90センチ”は忌み嫌われるようになります」(以下「」内は安田氏) それ以前、胸の大きさは誇らしいことだった。1950年代後半から1960年代にかけて“グラマー”が流行語となり、1959年にはバスト93センチの児島明子が「ミス・ユニバース」で優勝。渡米前、雑誌の対談で美人の条件の話題になった時に〈ハト胸って最高のものですからね〉と話すなど自らのバストをポジティブに捉えていた。 だが、一度変わった流れは容易には引き戻せない。1970年代、性的な想像を膨らませる大きな胸は、清純さを求められるアイドルたちにとって不必要と考えられた。1972年デビューのアグネス・チャンは男性誌で〈これでも、あたしアーチスト。オッパイやオシリ関係ない。だから全部ノーね〉とスリーサイズの公表を拒絶。1980年にデビューし、温厚で知られる河合奈保子も雑誌で84センチのバストの話になると、〈胸の話はキライッ!!〉とヘソを曲げ、理想を〈80センチくらいですね〉と答えている。「公称サイズはあくまで“見られたい数字”。当時90センチ台のアイドルも存在したかもしれませんが、世の中に受け入れられないと判断したのか、ほとんどが80センチ台を自称しています」 1990年、バスト94センチの細川ふみえがサイズの小さい“眼帯ブラ”と呼ばれるビキニ姿でグラビアに登場。『ザ・ベストテン』など歌番組が相次いで終了した時期とも重なり、女性タレントの新たな売り出し方としてグラビアでの過激な露出が脚光を浴びる。「堀江しのぶや中村京子がブレイクしたように、1980年代にも潜在的な需要はあったが、細川の人気爆発で1990年代に90センチ以上が出現するようになります」 それでも、“ストラスマンの呪縛”は25年経ってもまだ続いていた。細川は1992年に本誌で〈世間の人はいうじゃないですか。胸の大きさと、頭の良さは反比例するって〉と吐露している。「そのイメージを変えたのは、細川や小池栄子、MEGUMIが所属したイエローキャブ軍団です。テレビ番組で頭の回転の良さを見せ、バストと知能指数に相関関係はないと証明した」 2001年にデビューしたバスト103センチを誇る根本はるみは週刊誌で〈芸能界に入って成功する近道は、胸をウリにすることだと思っていたので。「このオッパイしかないだろう!!」って(笑)〉と発言。“胸の大きさは誇れること”という認識がタレント側にも広がり、2000年代には熊田曜子などバスト90センチ超えのグラドルが芸能界を席巻していった。 数十年の時を経て、日本人は“1967年の呪い”からようやく解放されたのである。その呪縛からの解放の一翼を担った、B90超の女神たち4人を紹介しよう。●細川ふみえ(1971~)B94 1990年、ミスマガジンのグランプリ受賞を機にデビュー。初グラビアで、Fカップの乳房がはみ出るほどの極小ビキニを披露し、グラビア界の頂点に立つ。●松田千奈(1977~)B93 15歳で芸能界デビュー。1994年頃からグラビアで大胆なビキニやハイレグを披露して人気が沸騰し、深夜番組やドラマにも出演。その後はモデルとして活躍。●根本はるみ(1980~)B103 2001年にデビュー。巨乳グラドル事務所イエローキャブ初のB100センチ超で人気を呼び、2002~2004年に11冊もの写真集を発表。テレビ、オリジナルビデオなどに活躍の場を広げた。●熊田曜子(1982~)B92 2001年に芸能界入りし、抜群のプロポーションでたちまちトップアイドルに君臨。2017年に35歳で通算36冊目の写真集『The GREATEST!!』を発売。◆取材・文/岡野 誠※週刊ポスト2018年5月25日号
2018.05.20 07:00
週刊ポスト
『巨乳の誕生』著者 「ボイン」から始まる大きな胸の歴史
『巨乳の誕生』著者 「ボイン」から始まる大きな胸の歴史
「この阿呆めが。女を見るならまず胸をというのが鉄則ではないか」 1000を超える文献を調べ上げ、『巨乳の誕生』(太田出版)を上梓した安田理央氏によれば、ルイ15世はオーストリアから息子のためにマリー・アントワネットを迎える時、胸の大きさを確認しなかった秘書官をこう怒鳴り飛ばしたという。歴史が証明するように、世界ではすでに17世紀から大きな胸に対する価値が高かったが、意外にも日本では重視されていなかった。「江戸時代の春画は男女の生殖器ばかりに焦点を当て、乳房はほとんど描かれていません。性的興奮を掻き立てられる部位ではなかったのです」(安田理央氏。以下「」内はすべて同氏) 日本社会において“胸”が意識され始めたのは第2次世界大戦後、欧米文化が流入してからだ。「1952年公開の『ならず者』(米国1943年公開)に主演したジェーン・ラッセルの肉体美に多くの日本男児が圧倒され、『肉体女優』という言葉が生まれました。その後、1956年に前田通子が新東宝の映画『女真珠王の復讐』で、日本映画史上初めてヌードを披露。翌年には、日活が筑波久子、松竹が泉京子を“肉体派”として売り出していった。同じ時期に『グラマー』という表現が頻出し始めます」 1967年、人気深夜番組『11PM』で司会の大橋巨泉が朝丘雪路の胸を「ボイン」と番組内で呼ぶ。2年後、月亭可朝が『嘆きのボイン』という歌を発売し、売り上げ80万枚を記録。「ボイン」は子供たちにまで広がる流行語となった。「『ボイン』は日本で初めて“大きな乳房”を形容した言語として歴史に刻まれました。しかし、1967年10月にツイッギーが来日し、細身の女性がもてはやされる風潮が生まれます。同時にアメリカのストラスマン博士が『バストサイズと性格および知能の関係』を発表し、胸の大きい女性は知能指数が低いという俗説が流れ始めます」◆「ボイン」から「デカパイ」、そして「Dカップ」と名を変えた 大きな胸がマイナスイメージだった1970年代前半、日本に“アイドル”という概念が生まれる。処女性が求められた彼女たちにとって大きな胸は余計なものだった。「1970年代後半の榊原郁恵や1980年代前半の河合奈保子など、胸の大きいアイドルは、たとえ売れてもトップには立てない宿命にありました」 1977年、『月刊バチェラー』が創刊される。当初は芸能色の強いグラフ誌だったが、4号目から外国人ヌード雑誌に路線変更し、1979年の後半から胸の大きな外国人を扱う専門誌に姿を変えていく。「他の雑誌でも徐々に『ボイン』から『デカパイ』という呼び名に変わっていきます。1977年、子供たちが『デカプリン!!』と叫ぶと、大場久美子が恥ずかしそうに胸を押さえる『ハウスプリン』のCMの影響があったのかもしれません」 1981年にアダルトビデオ(以下、AV)が生まれると、1982年には初めて大きな乳房を全面に押し出した藤尚美主演の『恵子 バスト90桃色乳首』が発売される。「1982年からヌードモデルの仕事を始めた中村京子は次第にAVにも出演し、1984年『平凡パンチ』の投稿ページで『Dカップ京子』と名付けられます。『ドリフ大爆笑』に出演するなど、テレビでも活躍したことで『Dカップ』は一般に認知されるようになりました」 元号が昭和から平成に変わった直後の1989年2月、松坂季実子というGカップのAV女優が誕生する。村西とおる監督作品『でっか~いの、めっけ!!』に出演すると、爆発的な売り上げを記録、一般社会に“巨乳”が浸透し始めていった。「“巨乳”という言葉自体は、すでに『平凡パンチ』1967年8月28日号でジェーン・マンスフィールドの胸を表現する際に使われており、『バチェラー』でも1980年代前半から頻繁に掲載されていましたが、世の中に浸透したのは松坂季実子の出現以降です」 同年、AV界ではEカップの樹まり子、Fカップのいとうしいななどがデビュー。巨乳旋風が吹き荒れた。この鉱脈をさらに切り開いたのが、1984年に堀江しのぶをデビューさせたイエローキャブ軍団を率いる野田義治氏だった。その後、1998年に“だっちゅ~の”を流行らせたパイレーツを経て、「巨乳」は市民権を獲得していく。2010年代に入り、小向美奈子の登場で「巨乳」はひとつの頂点を迎える。『肉体女優』に始まった呼び名が時代の変遷とともに変化する中で、大きなオッパイの女性は偏見と闘い続けた。毎日のように巨乳を目にできるようになった今こそ、我々は感謝と憧憬を忘れてはならないだろう。取材・文■岡野誠※週刊ポスト2018年1月26日号
2018.01.17 16:00
週刊ポスト
かたせ梨乃や松居一代ら逸材続々『11PM』 警察の大目玉も
かたせ梨乃や松居一代ら逸材続々『11PM』 警察の大目玉も
 かつて“お色気”の最前線はテレビだった。1960~70年代、多くのテレビ局が放送を終えた深夜11時、「シャバダバ、シャバダバ~」というテーマ曲とともに『11PM』(日本テレビ系、1965~1990年)が始まる。 放送開始時は時事問題を扱う「お堅いトーク番組」だったが、視聴率低迷を受けて路線を変更し、女性レポーターに裸で温泉実況をさせるといった“お色気”を導入したことで人気番組となった。日本のテレビ史初の“エロ番組”といわれている。60代男性が振り返る。「AVがまだ無い時代、当時の子供たちが目にする女の人の裸なんて、『平凡パンチ』のグラビアくらいでしたからね。初めて見たときは『動く裸が見られるなんて!』と衝撃を受けました。カバーガールを見るだけでも楽しみでした」 カバーガールとは、CMに入る直前に水着姿でセクシーポーズを披露する女性たちのことだ。当時を知る日テレOBがこう話す。「『カバーガールの良し悪しが視聴率に直結する』といわれるほど、男性視聴者の注目度は高かった。当時の若手女優にとって、カバーガールに採用されるかどうかは『芸能界の登竜門』といわれており、実際に何人もの女の子たちが、カバーガールを経て大女優になりました」 98cm、Gカップのたわわなバストで視聴者を虜にした、かたせ梨乃もそのひとりだ。「彼女の持つ官能的な容姿と、挑発するような表情が『極道の世界にピッタリのコが居るぞ』と評判になり、映画『極道の妻たち』のヒロインに抜擢された理由のひとつだといわれています」(映画関係者) 後に『水戸黄門』(TBS系)での入浴シーンが“ハマリ役”となる由美かおるは、自伝のなかで「(カバーガールとして)ミニスカートに網タイツ姿でダンスしたら、それを見ていた石原裕次郎さんから共演のオファーを受けました」という“シンデレラストーリー”を明かしている。 後に“癒し系女優”としてトレンディドラマに欠かせない女優になった飯島直子も、『11PM』のカバーガール起用が芸能界デビューだ。抜群のスタイルとハイレグ水着で世の男性を魅了した。松居一代、岡本夏生、RIKACOらもカバーガール出身だ。『11PM』にはほかにも注目されている女性たちがいた。「秘湯の旅」というコーナーで温泉ルポをする“うさぎちゃん”と呼ばれるレポーターたちだ。「カバーガールは芸能人っぽいコが多かったけど、うさぎちゃんは一般公募の素人。四苦八苦しながらレポートするのが初々しくて可愛かった」(50代男性)◆ヘアが映っちゃった さらに、女性たちが乳房を露わに相撲を取る「女相撲」、1960~70年代に一世を風靡したストリッパー・一条さゆりによるショーなど、お色気企画が次々に登場し人気を博した。年末には、全国からストリップ嬢を集めて「東西ストリップ合戦」を開催。1974年には深夜に48%という番組史上最高視聴率を叩き出した。 帯番組である同番組で、若手女優が務めた曜日替わりのアシスタント(司会者の補佐役)も楽しみのひとつだった。金曜日に大橋巨泉のアシスタントをしていたのが朝丘雪路。お嬢様女優のイメージの強かった朝丘だが、服の上からでもわかる豊かなバストは、大橋が思わず「どうして、ボインボインと出ているの?」と口にしてしまったことから、巨乳のことを「ボイン」というようになった逸話は有名だ。 深夜に行なわれた生放送だったため、“アクシデント”も多かった。1969年から1985年まで月曜日のアシスタントを務めた松岡きっこがこう明かす。「CM明けにストリッパーさんが振り返るタイミングを間違えてしまい、ヘアが一瞬映り込んじゃったことがありました。スタッフは所轄の麹町署に呼ばれて大目玉をくらい、始末書を書かされてました。でも、全然懲りていないから、同じようなことが度々起こる(笑い)。だから、麹町署では『11PM』を毎回録画して、ポロリがないかチェックされていたようです」 そう言って松岡は笑ったが、1972年には「低俗だ」という理由で『11PM』が国会で槍玉に挙げられたこともある。この番組の社会的な影響力がいかに強かったかが窺える。※週刊ポスト2017年10月27日号
2017.10.17 16:00
週刊ポスト
松尾雄治氏が営む東京・西麻布のダイニングバー
松尾雄治氏が占う2019ラグビーW杯 「ベスト4なら最高」
 今後日本で行われる大きなスポーツイベントといえば、2020年の東京五輪が真っ先に挙げられるが、その前年にはラグビーのワールドカップ(W杯)も日本で開催される。前回のイングランド大会で、日本代表が強豪の南アフリカから劇的勝利を収め、“五郎丸フィーバー”に沸いたのは記憶に新しいところだ。 そこで、日本ラグビー界の「レジェンド」として知られる元日本代表の松尾雄治氏(63)に、W杯への期待や、昨年53歳の若さで急死した戦友・平尾誠二氏との思い出、自ら経営するダイニングバーでの幅広い交友録などを聞いた。 * * *──いよいよ日本開催のラグビーW杯まで1000日を切りましたが、どんな心境ですか。松尾:日本でラグビーのワールドカップが行われるなんて大変な機会だから、やっぱり良い大会にしてほしいというのが本音だよ。 ただ、ラグビーはルールがどんどん変わるし、国と国との戦いが楽しみなワールドカップだけに、日本代表に外国人選手を何人入れるのかという問題もあるでしょ。どうしても体格のいい外国人をたくさん入れたほうが強いんだから。──とはいえ、日本チームが快挙を成し遂げた前回のW杯では、小柄な田中史朗選手が巨体の選手に果敢にタックルしに行くなどガッツ溢れるプレーで、多くの感動を呼びました。松尾:日本人の諦めない気持ち、粘り強いプレーが観客にも伝わったよね。本来、ラグビーの応援は、どこの国に行っても勝ち負けの問題ではなく、好プレーが出たら、例え相手チームの選手でも惜しみない拍手を送り、怠慢なプレーに対しては全員がブーイングするもの。 でも、いまの時代はどうしても勝ち負けの結果がすべてでしょ。マスコミの盛り上げ方にも問題があるんじゃないかな。──日本大会では、全国12会場の中に東日本大震災で被害を受けた岩手・釜石市のスタジアムも選ばれました。現役時代、新日鉄釜石で長らくプレーしてきた松尾さんにとっても、感慨深いのでは?松尾:釜石には9年もいて、第二の故郷みたいなもんだからね。震災後も新日鉄ラグビー部のOBらで被災地支援の「スクラム釜石」を結成して、チャリティートークショーには、大畑(大介)君やマコーミック、平尾(誠二)なんかも来てくれたんだ。 少しでも地元の人たちを元気づけたいと思ってきたから、ワールドカップの開催で、さらに復興に弾みがつけばいいなと、心から願っていますよ。──松尾さんとともに1980年代の黄金期を支えた平尾さんが突然亡くなり、W杯を控える日本のラグビー界にとっては大きな損失となりました。松尾:今でこそラグビーにもプロの道が開けて活躍する選手も出てきたけど、昔から日本のラグビー界は閉鎖的なところがあって、「ラグビーは大学まででいいんじゃないか」と話す人がいたぐらい。それじゃ、野球やサッカーのように子供たちに夢や希望を与えるスポーツにはならないよね。もちろん、お金を稼ぐことだけがすべてじゃないけど。 そんな中で、平尾は協会側に入って、内部からラグビー界を変えていこうと頑張っていたし、僕は外で暴れ回っていろんな情報発信をしながら、時には平尾に教えたりもした。そうやって「お互いに役割分担をしてラグビー界を盛り上げよう」という暗黙の了解ができていたんだ。だから、彼を失って本当に残念でならないよ。──松尾さんはテレビやラジオに出演したり、4年前から東京・西麻布でダイニングバーを経営したりと多方面で活躍され、スポーツ界のみならず様々な業界の人たちと幅広い交友関係を築いています。それもラグビー改革や普及活動につながっているのですね。松尾:そればっかりじゃないよ。これは僕と同じくラグビーをやっていた親父の教えでもあるんだけど、一度チームから離れたり、監督を辞めたりしたら、二度と大きな顔をするなと。 今までの僕のラグビー人生は、親父に言われて子供のころからレールに乗せられてラグビー漬けの毎日を過ごしてきただけ。現役を辞めた後も親父の会社に入って社長までやってね。 その後は、芸能活動をやりながら、ビートたけしさんなどに助けてもらって今がある。でも、いったい自分はラグビーがなくなったら本当は何をしたいんだろう──と真剣に考えていたんだよね。ちょうど8年務めた成城大学のラグビー部監督を辞めたのが59歳だったから、60歳を機に違った生き方もしてみたいと思ったんだ。 そんな時、中学時代からの旧友が「雄治、お前店でもやってみたらどうだ? みんなで応援するし、いつでもみんなで会える」とアドバイスしてくれてね。確かにこれまでのラグビー生活や芸能生活で、恩返ししたい人はたくさんいたし、長らく会いたくても会えなかった友達もいる。東京で飲食店を開けば、そうした仲間たちと交流できるしね。──店は基本的に松尾さんの知人か、その紹介でなければ入れない会員制とのこと。スポーツ界だけではなく、いろいろな業界の有名人も多く訪れるのではないですか?松尾:そんなこともないけど、これまでいろんな人が「松尾の店で飲もう」とこの店を選んでくれてね。もちろん平尾も毎年来てくれたし、元オリンピック選手やサッカー選手、プロ野球選手もこれまでたくさん来てくれたよ。──お酒の強い芸能人もいらっしゃると思いますが、松尾さんも付き合うのですか?松尾:僕は新日鉄をやめる30歳までお酒はほとんど飲めなかったんだよ。特に試合の前なんかにお酒を飲んだら大変。興奮して眠れない。 芸能活動をするようになってからは、大橋巨泉さんや松方弘樹さんといった酒豪の人たちと飲む機会も多くて、ずいぶん鍛えられたよね(笑い)。そうはいっても、今でも店ではハイボールを5、6杯飲む程度だけどね。──たばこは吸いますか?松尾:僕は吸わないけど、店も特別禁煙にはしてない。一緒に来たグループの皆がたばこを吸えば、自由に吸って構わない。でも、何人もたばこを吸わない人がいたら、気を使って隅のほうで吸ったり、外に出て吸ったりするのは当たり前のマナーだと思うから、いちいち規制もしてないよ。 たばこだけの問題じゃなく、僕が注意しなければならないほどマナーの悪いお客さんには来てほしくないし、店とお客さんは対等な関係であるべきで、一緒に店を良くしたいっていう気持ちが強い。──W杯開催に伴う経済効果は2330億円なんていう予測も出ています。松尾さんのお店もますます賑わいそうですね。松尾:ウチは儲けは度外視なの。だってワインにシャンパン、ウイスキーなんかが飲み放題だけじゃなく、カレーライスみたいな食べ物もついて5500円なんだから。 昔、高倉健さんが主演した映画『現代任侠史』の中で、寿司屋でお代を払えなくなった客に、高倉健さんが「はい、お一人様1000円で4000円いただきます」というシーンがあって、ものすごく心に残っているんだよ。だから、自分の店もお金のない人からはお金を取らないシステムにしようと(笑い)。──店の経営だけではなく、2019年に向けてマスコミで松尾さんの出番も増えそうですね。松尾:僕は店を開店して4年間、休んだ日は数日しかないほど、ほぼ毎日店には来てる。マスコミへの出演は、今も毎週テレビの生放送があったり、4月からラジオ番組が始まったり、その他、講演会やいろんな予定が入っていて寝る暇がない日もあるけど、そういう活動を続けているのは、ラグビー界への思い入れがあってこそ。 報道が少なくなることでラグビーというスポーツを忘れてほしくないし、もっともっと子供たちに「やってみたい」と思ってもらえたらいいなと。──松尾さんがいた新日鉄釜石は、当時、日本選手権7連覇という偉業を成し遂げました。2019年のW杯では松尾さんのような伝説に残るようなスター選手がたくさん出てほしいですね。松尾:僕なんか体は小さいほうだったし、当時のメンバーのほとんどが高校の3軍出身のような無名選手で恵まれてなかった。でも、新日鉄に入って、他の社員と同じように仕事をしながら、日々過酷な練習メニューをこなす。僕も現場の新人研修や人事の仕事をやったりしたからね。もちろん、ラグビーをやってるからって、特別手当もないしね。 7連覇を成し遂げたのは奇跡に近かったと思うけど、それだけ皆が血のにじむような努力した結果だと思うんだ。 いずれにしても、今度のW杯は、いろんな意味で日本ラグビー界の正念場になるよね。勝っても負けても試合の内容が問われるだろうし、その後のプロ化の体制づくりも含めて、どれだけアマチュアスポーツの域を超えられるかの方向性も見えてくると思う。──敢えて日本代表はどこまで勝ち進んでほしいですか。松尾:ベスト4ぐらいまでいってくれたら最高だよね。勝っても負けても多くの国民に感動を与えるような大会になれば、それだけでも大きな収穫なんじゃないかな。●まつお・ゆうじ(スポーツキャスター)/1954年東京都生まれ。小学校からラグビーを始め、1975年に明治大学を初の日本一に導く。新日鐵釜石では1979年から選手、主将、監督兼選手として社会人選手権、日本選手権で不滅の7連覇を達成。撮影■山崎力夫
2017.02.18 16:00
NEWSポストセブン

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