萩本欽一一覧

【萩本欽一】に関するニュースを集めたページです。

若林正恭の「聞く力」と「突っ込み力」が萩本欽一の心を動かした
萩本欽一が「あいつ好き」と絶賛 若林正恭と過ごした「幸せな1時間」
 新春から、すばらしいラジオを聴くことができた。1月2日、ニッポン放送で特別番組『欽ちゃんとオードリー若林のキンワカ60分!』が放送された。2人の対面は、オードリーが『ラジオ・チャリティ・ミュージックソン』のパーソナリティを務めた2017年以来4年ぶり。その時は初代パーソナリティの萩本欽一、若林正恭、春日俊彰の3人でトークを繰り広げ、コント55号にハマっている若林が「ネタ全部ください!」などと切り出し、欽ちゃんを“萩ちゃん”と呼ぶなどして距離を縮めていた。 今年の放送では萩本と若林の2人だけとなり、濃密な会話が繰り広げられた。演出家の佐久間宣行氏もツイッターで〈キンワカ60分、メチャクチャおもしれーな〉と呟くなど、SNS上でも番組内容に満足する声が多数上がった。 1966年結成の『コント55号』は萩本が坂上二郎に不条理な振りをしたり、ツッコミでジャンピングキックをしたりするなど、それまで存在しなかった舞台を自在に動き回るアドリブコントでお笑い界の頂点に立った。1970年代に入ると、萩本は『スター誕生!』『オールスター家族対抗歌合戦』など司会者としても地位を確立。1980年代前半には『欽ドン!良い子悪い子普通の子』『欽ちゃんのどこまでやるの!』『欽ちゃんの週刊欽曜日』という冠番組が30%台を記録し、“視聴率100%男”の異名を取った。 だが、年齢を重ね、大御所になり過ぎた萩本は共演者に“欽ちゃん”ではなく、“大将”と呼ばれるようになっていった。萩本の著書『まだ運はあるか』(大和書房/1999年11月発行/取材・構成 斎藤明美)では次のように語っている。〈僕は「欽ちゃん」という形でずっとやってきたからね。それがある日、テレビに出てる時にも他の出演者から「大将」と呼ばれるようになってきたわけね。危ないなと思いましたよ。(中略)みんなが俺のこと潰してらって。「大将」という呼び方で。〉 また、募金活動をする『ラジオ・チャリティ・ミュージックソン』『24時間テレビ 愛は地球を救う』のパーソナリティを務めたこともあってか、“欽ちゃん=いい人”というイメージが世間に浸透。コメディアンを続ける上で、不利な状況が重なっていった。「良いね~。最近突っ込むヤツいないんで」『キンワカ60分!』で若林は“欽ちゃん”と呼ぶだけでなく、コント55号と萩本欽一への興味を抱きながら本人に迫り、時に意を決して突っ込んだ。それが、40代で予備校に行き、60代で野球の監督になり、70代で大学に通った萩本の“人と違うことをする”という徹底した信条を浮き彫りにさせ、リスナーの興味と笑いを生んだ。 ゴールデンから深夜に時間帯を下げた『しくじり先生』(テレビ朝日系)について、萩本は「最初はしくじりだったんだけど、だんだん苦労話になってきたんだね」「そんなにしくじったヤツって、芸能界にいないもんな」と分析した後、「(番組を見るということは)若林はそんなに嫌いな方に入ってないんだ」と語った。 すると、若林は「嬉しい、めちゃくちゃ好きだから欽ちゃんのこと。俺、ファンですもん。僕はとにかくコント55号のネタが好きで」と口にし、「絵画」「やきそば」と具体的なコント名を挙げて、思いを伝えた。その後、若林は「(テレビマンや共演者など)いろんな人と仲良くならないと、結局六本木や西麻布に行かないと上にいけないのかと思って」など萩本に悩みを相談していく。 一方で、若林は果敢さも持ち合わせていた。コント55号のネタで飛び跳ねている萩本に言及し、「運動神経良かったんですか?」と聞くと、欽ちゃんは「運動会でね、一等賞」と告白。その後、「だって、欽ちゃん走り見てごらんよ。肘が横に出るんだよ? 小学校の運動場ってカーブ、カーブ、カーブだよ」と話すと、若林はすかさず突っ込んだ。若林:『欽ちゃん走り』って運動会のカーブで生まれたんですか?萩本:そうそうそう。若林:嘘だよ、絶対(笑)。(中略)若林:そうか、東京の小学校だからグランドが狭いから。萩本:大体、まん丸だもん。若林:嘘だよ、絶対(笑)。萩本:言い方悪い、ほとんどまん丸ね。若林:だから『欽ちゃん走り』なのね。そんなうまいこといくかな(笑)。 その後、テレビ番組の寿命についての話に切り替わると、萩本は若林に心を許していく。若林:さっきの『しくじり先生』がその話ですよね。ゴールデン上がって、深夜下がっちゃって。萩本:はっはっはっは。若林:笑ってんじゃないよ!萩本:はっはっはっは。若林:まだやってんだよ!萩本:良いね~。最近突っ込むヤツいないんで。若林、俺のこと時々突っ込むんだよ。なんか快感だね。若林:ホントですか。萩本:80過ぎるとボケしかできない。若林:ヒヤヒヤしながらだけど。「今から言っとく。あいつ、若林好き」 萩本が大御所になって以降、周囲は気を遣い、「なんか変なこと言ってるな」と感じても突っ込まず、流していたのだろう。そして、聞き手は“欽ちゃんの良い話”としてまとめがちだったように思う。それでは、本来の彼の持ち味は引き出されない。天下を取る人物は、他人とは一味も二味も違う。前出の著書『まだ運はあるか』にはこんなエピソードも載っている。〈数字をとるにも楽をしちゃいけない。だから番組の打合せも、応接間なんかでやってはいけないとかさ。テレビ朝日の玄関でやったことありますよ。「こんなぬくぬくした所で仕事してるからいい考えが出ないんだ。玄関でやろう、玄関で」って、真冬の寒ーい時にみんなで玄関の前で灰皿持って、しゃがんでさ。そうすると、通る人が「何やってるんだろう」って見るから面白いよ。〉 欽ちゃんは良い意味で“変人”なのだ。そうでなければ、芸能界の頂点になど立てない。40代半ばの頃、萩本は自分の語彙力不足を感じて河合塾に通っていた時期があったという。騒ぎになるため、予備校の要請で家庭教師に切り替えた後の話をこう述べた。萩本:(家庭教師の)先生に突っ込みながら。先生の話はつまらないって言って。若林:そんなこと言っちゃかわいそうでしょ。呼んでんだから、あなたが。萩本:「何がつまらないの?」って言うから、「先生ね、教えよう、教えようとしてるから、つまらない」若林:そりゃ教えようとするでしょ!(笑)萩本:英語で日本人が勘違いしてる話とかね、そういう話しなよ。若林:求め過ぎでしょ、家庭教師に。 コメディアンである萩本は若林に突っ込まれることで、生き生きと話し続けた。番組の最後、萩本は1人で感想をこう述べた。〈幸せな1時間だったって感じね。あんまりタレントさんって好いたことないんだけど。今から言っとく。あいつ、若林好き。最後にね、永(六輔)さんの言葉であんの。「もう友達っていらない。いらない中でね、1人増やすことにした」っていう。(中略)いらない中に友達1人どうしても作りたくなったヤツがいたっていう。こっから、もう鍵閉めて入れない。春日、ごめんな。もう入れる箱がいっぱい。ありがとう〉 丁寧に扱うことで、人の良さを消してしまうこともある。若林は根底に敬意と尊敬の念を持ちながら、的確に突っ込んだ。それが、欽ちゃんの心を動かしたのだろう。『キンワカ60分』は特番という事情もあってか、CM直後のジングルがなかった。これは、スタッフがその時間さえもトークに回したいと感じたのかもしれない。ぜひ、定期的な特番としての放送を願いたい。そして、『あちこちオードリー』(テレビ東京系)のゲストにも欽ちゃんを呼んでほしい。■文/岡野誠:ライター、松木安太郎研究家。NEWSポストセブン掲載の〈検証 松木安太郎氏「いいボールだ!」は本当にいいボールか?〉(2019年2月)が第26回『編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞』デジタル賞を受賞。著書『田原俊彦論 芸能界アイドル戦記1979-2018』(青弓社)では本人へのインタビュー、野村宏伸など関係者への取材などを通じて、人気絶頂から事務所独立、苦境、現在の復活まで熱のこもった筆致で描き出した。
2022.01.09 16:00
NEWSポストセブン
司会者・萩本欽一氏と審査員・都倉俊一氏が対談
萩本欽一×都倉俊一『スタ誕』対談 「百恵ちゃんが泣いていた」事件
「欽ちゃん、久しぶり!」「文化庁長官だって? すごいね~」。対談は和やかな会話から始まった。『スター誕生!』(日本テレビ系)で初代司会(1971~1980年)を務めた萩本欽一氏と、審査員(1971~1981年)だった都倉俊一氏。まさにスターが誕生する瞬間に立ち会い続けた2人が番組の裏話を語ってくれた。(前後編の後編)──『スタ誕』出身で記憶に残る方のお話を教えてください。萩本:ある時、都倉っちが「大物が来た」と。レッスンで厳しいことを言うとみんな泣くんだけど、その子は一切動じないって。それが山口百恵ちゃんでした。都倉:彼女の主演映画『伊豆の踊子』(1974年)を撮った西河克己監督も言っていたけど、彼女には人の目を惹きつける不思議な力がある。今でもアップリケのついたジーンズ姿で『スタ誕』に出場した時の姿が焼き付いていますが、真のスターとはそういうものなんです。萩本:森昌子ちゃんには申し訳ないことをした。ある時「たわしみたいな頭だね」って言ったら反応してくれなくてね。それ以来、テレビで人の容姿を言うのはやめました。だから彼女は僕にとっての師匠なの。都倉:僕が作曲した『ペッパー警部』(1976年)でピンク・レディーがデビューした時、松田トシさんが「ミニスカートで脚を開く振り付けは品がない」って怒ってね。レコード会社の上層部からも「もっとオーソドックスな曲でデビューさせたい」と言われたんですが、作詞の阿久さんや振り付けの土居甫さんたちと抵抗して、押し通したんです。萩本:当時、都倉っちから「“ピンク・レディー”はカクテルの名前からつけた」と聞いて、この人らしいネーミングだなと思ったね。──番組以外でも出身タレントとの交流はあったのでしょうか。萩本:僕はあえて距離を置いていたの。岩崎宏美ちゃんはどこで会っても「欽ちゃん!!」って声をかけてくれたけど、あまり親しくすると、『スタ誕』とは関係ないタレントさんは面白くないかもしれないじゃない? だから司会をやめる時、「今まで笑顔を見せなくてごめんね」ってみんなに謝った。その時、百恵ちゃんが泣いていたという話をプロデューサーの池田文雄さんから聞いたけど、いつか本人に確かめたいな。都倉:『スタ誕』はスタッフが素晴らしかった。みんな親身になって出身タレントをかわいがっていたし、組織としても全面的にフォローしていた。まさに“スタ誕ファミリー”ですよ。そういう番組はもう出てこないんじゃないかな。【プロフィール】萩本欽一(はぎもと・きんいち)/1941年生まれ、東京都出身。1966年に結成したコント55号で一世を風靡。1980年代は“視聴率100%男”の異名をとる。現在はネットでも活動中。都倉俊一(とくら・しゅんいち)/1948年生まれ、東京都出身。作曲家としてピンク・レディー、山口百恵、山本リンダらに数々のヒット曲を提供。今年4月、文化庁長官に就任。構成/濱口英樹 撮影/黒石あみ※週刊ポスト2021年10月29日号
2021.10.22 16:00
週刊ポスト
司会者・萩本欽一氏と審査員・都倉俊一氏が対談
萩本欽一×都倉俊一『スタ誕』対談 司会者と審査員は険悪だった?
「欽ちゃん、久しぶり!」「文化庁長官だって? すごいね~」。対談は和やかな会話から始まった。『スター誕生!』(日本テレビ系)で初代司会(1971~1980年)を務めた萩本欽一氏と、審査員(1971~1981年)だった都倉俊一氏。まさにスターが誕生する瞬間に立ち会い続けた2人が番組の魅力と、知られざる交流を語ってくれた。(前後編の前編)──お2人が番組に関わったいきさつからお聞かせください。萩本:当時「コント55号の2人は仲が悪い」と週刊誌に書かれてね。笑いがとりづらくなったの。それでしばらく別々の仕事をしようとしていた時に『スタ誕』の話が来た。司会なんてしたことがないから断わったんだけど、「アシスタントを付けるから」と言われて「じゃあ、1クールだけね」と。きっとそれくらいでクビになるだろうと思ったからさ。都倉:僕は最初、ピンチヒッターだったんです。忘れもしない、第9回の三鷹市民会館。阿久(悠)さんが音楽賞にノミネートされて収録に来られなかったので、僕が審査員席に座った。──それが10年近いレギュラーに。お2人にとってはどういう番組でしたか?都倉:それまでのオーディション番組は大御所の審査員が「上手いですね」と参加者を持ち上げるものばかり。ところが『スタ誕』は阿久さんも松田トシさんも歯に衣着せぬ講評をした。僕にも伝染して(笑)本音を言うようになったけど、その辛口が人気を集めたんです。萩本:みんながきついことを言うから、僕は逆の立場で参加者を応援した。合格者が出なかった時の「バンザーイ、なしよ」は場の空気を明るくしたかったから。決戦大会でスカウトの札が上がらない時は「上げてよ~!!」ってお願いしたね。──司会者と審査員は逆の立場だったんですね。都倉:実は両者の関係が険悪な時期もあったんです。番組が始まってしばらくして、欽ちゃんが観客席の素人をステージに上げたことがあったでしょう?萩本:参加者はみんな緊張しているから、どうやっても笑いはとれないでしょ。だからアドリブでお客さんを舞台に上げて「欽ちゃんコーナー!」って叫んだの。都倉:本格的なスカウト番組にしようとしていた阿久さんは「勝手なことをして」と怒ってね。その間、審査員たちは楽屋に引き上げることになった。萩本:僕はそれを見て、気を遣って席を外してくれたんだと思ってた(笑)。都倉:間に入ったスタッフが偉かったね。両方にいい顔をして上手く収めたんです。結果として「欽ちゃんコーナー」が評判となってクロベエ(黒部幸英)などの人気者が誕生したし、番組の視聴率もぐんぐん上がった。それは間違いなく欽ちゃんのおかげです。萩本:番組を観る人が増えればスターもたくさん出るだろうという、僕なりの応援だったのね。でも数年後、審査員だった三木たかしさんから真相を聞いた時はびっくりした。三木さんは「欽ちゃんに酷いことをした。僕はもう一度、人間の修行をする」と言ってきたの。──退席した審査員たちの真意をそこで初めて知ったわけですね。萩本:阿久さんもカッコいい人でね。ある時「欽ちゃんは偉い。俺たちがあんなことをしても平気だった。負けたよ」って。その言葉を聞いて阿久さんに惚れました。都倉:僕は両者の間で悩んでいたプロデューサーの池田文雄さんに相談されて、ゴルフコンペを始めた。ゴルフ未経験だった欽ちゃんと阿久さんを強引に誘って、コミュニケーションがとれる場を作ったんです。萩本:その頃、「都倉先生にゴルフを教わるなんて緊張するな」と言ったら「先生って呼ばないで。“都倉っち”でいい」って言われてね。だから今でも“都倉っち”って呼んでるの(笑)。都倉:僕は当時23歳の若造でしたから、欽ちゃんからいろんなことを教わりました。この人は遊びの天才だからね。最初のコンペでも練習なしで、いきなりパーをとったんです。あれには驚いたなぁ。(後編に続く)【プロフィール】萩本欽一(はぎもと・きんいち)/1941年生まれ、東京都出身。1966年に結成したコント55号で一世を風靡。1980年代は“視聴率100%男”の異名をとる。現在はネットでも活動中。都倉俊一(とくら・しゅんいち)/1948年生まれ、東京都出身。作曲家としてピンク・レディー、山口百恵、山本リンダらに数々のヒット曲を提供。今年4月、文化庁長官に就任。構成/濱口英樹 撮影/黒石あみ※週刊ポスト2021年10月29日号
2021.10.22 11:00
週刊ポスト
『スター誕生!』第1回の決勝大会で、13社から指名された森昌子
『スター誕生!』放送開始から50年 伝説のオーディション番組の軌跡と功績
 1971年10月3日。テレビ史に残るオーディション番組がスタートした。『スター誕生!』(日本テレビ系)である。この年、大映が倒産し、日活はロマンポルノ路線に転向。斜陽の映画界を尻目に、カラーの受信契約数が1000万を超えたテレビは娯楽の中心となっていた。かつては映画から生まれたスターを自分たちの手で作りたい──。『スタ誕』はテレビマンたちのそんな思いが凝縮された番組であった。放送開始から50年。文字通り、あまたのスターが誕生した番組の軌跡を振り返る。「人買い」と批判された番組名物の入札制度 一家に1台まで普及したテレビの特性をフルに生かしたタレント発掘番組。それが『スタ誕』であった。成功の要因は2つ挙げられる。1つは「公平・透明な選考システム」。志望者は誰でもハガキ1枚で応募することができ、審査の過程はすべて公開された。それまでブラックボックスだったデビューへの道筋がカメラの前で提示された意義は大きく、一部にあった「芸能界は怖いところ」というイメージの払拭にも貢献する。 もう1つは「きめ細かなバックアップ体制」。テレビ予選合格者には局が費用を負担する各種レッスンが施され、デビュー後は日本テレビの番組に優先的に出演することができた。絶大な媒体力を有していたテレビの支援は芸能プロダクションやレコード会社にとっても魅力的なものであった。 司会にはピンでの活動を始めたばかりの萩本欽一を起用。「僕には無理」と渋る萩本を「素人の味方になってやって」と口説き落とす。審査には番組の企画にも関わった阿久悠のほか、作曲家や声楽家が参加。従来の同種番組と異なり、辛辣なコメントを交えた厳しい審査が話題となる。 さらに、画期的だったのは決戦大会における入札制度。気に入った出場者にプロダクションやレコード会社がプラカードを上げるシステムは「人買いだ」との批判も受けたが、番組の狙いはスカウト側の顔を映すことで、彼らにも責任を負ってもらうことにあった。 鳴り物入りで始まった『スタ誕』の初回視聴率は4.7%。産みの苦しみで、最初のうちは苦戦するが、萩本が“素人いじり”の才能を発揮した「欽ちゃんコーナー」が人気を呼び、数字は徐々に上がっていく。だが番組の評価を確立したのは、第1回決戦大会を経て世に出た森昌子という逸材であった。 1972年に『せんせい』でデビューした森は当時13歳。いきなり大ヒットを記録したことから、同世代の中高生が続々と応募する呼び水となる。その結果、『スタ誕』は10代のアイドル歌手の供給源となった。『スタ誕』出身者が芸能界を席巻した ここからは番組の興隆を4期に分けて辿ってみよう。まず第1期(1971~1973年)は森と同学年の桜田淳子と山口百恵がデビュー。“花の中3トリオ”としてアイドルブームを牽引する。歴代最多の25社からスカウトされた桜田は1973年の日本レコード大賞で最優秀新人賞を受賞。阿久は後年、「上手いとか、心を打つとかのほかに“光る”という要素が重要なことがわかった」と述懐した。 続く第2期(1974~1976年)は森と同世代の伊藤咲子、岩崎宏美、片平なぎさらを見出す一方、城みちるや新沼謙治など、男性歌手も輩出。実力派といわれるアイドルが多数登場したのもこの時期の特徴といえる。手の届きそうな高嶺の花か、手の届かない隣のミヨちゃんか──。お茶の間に入り込んだテレビならではの親近感が奏功し、視聴者は素人がスターに成長していく過程を楽しむようになる。 第3期(1976~1979年)は社会現象となったピンク・レディーを筆頭に石野真子や清水由貴子らが人気を獲得。各音楽祭の新人賞には『スタ誕』出身者が名を連ねるようになり、それまで「帝国」と呼ばれるほど権勢を誇っていた渡辺プロダクションの一強体制を揺るがす事態となった。番組が最高視聴率28.1%を獲得したのは1978年5月のことである。 第4期(1980~1983年)は柏原芳恵、小泉今日子、中森明菜、岡田有希子ら、人気アイドルが続々とデビューするが、プロダクションが自前のオーディションを開催し始めたことや、シンガーソングライターの台頭などにより、発掘機能が徐々に低下。番組とは無縁の松田聖子がトップスターに就いたのは象徴的な事象であった。歴代司会者はトップタレントばかり チャンスを掴もうと必死の参加者と、厳しい講評を行なう審査員。その間に立って番組を進行する司会者には明るさと機転、そして参加者に寄り添う優しさが求められた。初代司会(1971~1980年)を務めた萩本欽一はうってつけの人物だったが、その後は谷隼人・タモリ(1980~1981年)、坂本九・石野真子(1981~1982年/石野は1981年9月に降板)、横山やすし・西川きよし(1982~1983年)へと引き継がれた。 番組が終了した1983年までの12年間で、応募総数は200万通、番組出場者は5500組、デビューは88組92人。今も一線で活躍するスターを多数送り出した功績はあまりにも大きい。取材・文/濱口英樹※週刊ポスト2021年10月29日号
2021.10.15 19:00
週刊ポスト
坂上二郎さんの赤裸々告白を振り返る(写真/共同通信社)
坂上二郎さん 欲望を一気に解き放った22才の“初体験”物語
『週刊ポスト』創刊当時の名物コーナーが「衝撃の告白」。銀幕のスターや渦中の人物が赤裸々に語る証言はまさに“衝撃”の連続だった。1971年10月22日号に登場したのは坂上二郎。萩本欽一と「コント55号」で大活躍した“二郎さん”の赤裸々告白を振り返る。。「別にコンビ解消ってのじゃありませんよ。だいたいね、欽ちゃんの芝居をパッと受けられるの、ぼくしかないですよ」 歌手を目指して鹿児島から上京した坂上二郎は、26歳の1960年に浅草のフランス座に流れ着く。この地で萩本欽一と出会い、1966年にコント55号を結成。舞台を所狭しと走り回る斬新なスタイルが話題となり、1968年の『お昼のゴールデンショー』を皮切りに、テレビ界を席巻。翌年にはレギュラー週13本を抱えた。だが、2年後の取材時には2本に激減。解散を噂されていたが、二郎さんは否定した。「ぼくは『狎(な)れ』という言葉がきらいなんですよ。仕事でも、つきあいでも『なれ』ちゃいけませんね」 1971年10月から欽ちゃんは『スター誕生!』、翌年に『オールスター家族対抗歌合戦』の司会に抜擢された。二郎さんは1974年にドラマ『夜明けの刑事』に主演し、歌手としても『学校の先生』で27万枚のヒットを飛ばす。2人とも新分野で成功を収めたが、解散はせずに1973年に『コント55号のなんでそうなるの?』、1975年に『ぴったしカン・カン』など新番組も始めた。「人間には二通りありますよ。率先してやるタイプと、引っぱられていくうちに味がでていくタイプとね。ぼくは『引っぱられ型』なんだから……」 欽ちゃんとの関係をこう例えた二郎さんを、記者は童貞喪失話に誘導していく。忘れもしない15年前、歌手・青木光一のカバン持ち兼司会を務めていた22歳の青年は福岡・行橋市で大人になった。巡業中の夜、「一度はハってみろよ」とけしかけられ、マネージャーに連れられ、深夜3時に遊郭へ赴いたのだ。「やり手婆さんに、『初めてだ』と告白しちゃった。ところが、婆さんは本当にしないんだな。ぼくのこの顔でしょう。三十すぎに老けてみられていましたもんね」 婆さんはシワの滲んだ乳を垂らしながら、激怒した。「うそをいいンしゃい。いい年して童貞なんて、あンた、うそいってもだめよ」 なんとか逆立つやり手ババアの気を収めた二郎さんは、興奮の坩堝に突入する。「アイカタがねェ、最初から『あァたァ、あァたァ』といい気で演技するでしょうが。いまなら『まじめにやれ』というところだけど、そのときは女はそんなもんかと、ハッスルしましてね。一時間以内に四ラウンドまじえたように記憶しております」 初体験を思い出すと昂りを抑えきれず、呼び方はいつの間にか“やり手婆さん”から“アイカタ”に変わっていた。「童貞を一度破ったら、その翌日からガラリと人生観がかわりましてねェ。それからというもの、毎日のように遊郭にかよいましたよ」 22歳まで抑えた欲望を一気に発散した二郎さんも結婚後は遊郭へ足を延ばさず、浮気もしなかった。「女性をホテルにさそうなんて考えると、それだけでもう億劫で戦意はしぼんじゃうもの。おまけに病気の心配までしていたんじゃ、もうどうにもできませんよ。女房どのに感染させて、そのあげくとっちめられて、と考えたら、それだけでね……」“女房殿”以外には決して股間から“飛びます、飛びます”しない二郎さんだった──。構成・文/岡野誠【※本特集では現在の常識では不適切な表現が引用文中にありますが、当時の世相を反映する資料として原典のまま引用します】※週刊ポスト2021年8月27日・9月3日号
2021.08.25 16:00
週刊ポスト
主演のスター俳優たちを喰うほどの人気もあった俳優集団「ピラニア軍団」(イメージ)
高田文夫氏が振り返る 『ひょうきん族』が『全員集合』を超えた日
 土曜8時を楽しみに待ち、ブラウン管に釘づけになった1時間。番組が終わると、もう週末が終わったような気がした。多くの国民が腹を抱えて笑った『オレたちひょうきん族』(フジテレビ)は、同時間帯に放送していた視聴率40~50%のお化け番組『8時だョ!全員集合』(TBS)と何かと比較され、ライバル関係という構図で語られた。「高田ギョロメ文夫」として『オレたちひょうきん族』の構成作家をつとめていた放送作家、タレント、演芸評論家の高田文夫氏が、土曜8時のテレビ番組覇権争いを振り返る。 * * * TBSテレビとフジテレビの土曜8時のお笑い戦争。これをマスコミ的には面白おかしく「土8戦争」という。この熾烈な戦いを取り上げる時、往々にしてTBSの『8時だョ!全員集合』(昭和44年スタート)vsフジテレビ『オレたちひょうきん族』(昭和56年スタート)という構図で書くが、ことはそんなに単純ではない。この対決の10年も前から二局間での戦は始まっているのだ。『全員集合』でドリフターズが話題になり始めた時、フジのお昼(長いこと『笑っていいとも』を放送していた枠)にマエタケ(前田武彦)と共に突然現われた二人組、若い人に熱狂的支持を受けたコンビこそ「コント55号」である。 萩本欽一と坂上二郎。土曜8時に『コント55号の世界は笑う』としてすぐに話題。ドリフと55号のいい勝負は続いたが加トちゃん人気で『全員集合』が一歩リード。態勢を整えた萩本欽一はラジオのニッポン放送でやっていたハガキ一枚のショートコントスタイルをテレビ的にアレンジ。ハガキを持ってカメラと一緒に町の中へ飛び出し、素人の面白いリアクションをひろっていくドキュメントな笑いの手法へ移っていく。これが昭和50年の『欽ちゃんのドンとやってみよう!』である(愛称『欽ドン』)。 ドリフの台本を練りに練ってギャグを作りあげていく職人のような「笑い」に対し、欽ちゃんは素人をいじり、つっこみ、芸能人でもそれまで笑いとは縁のなかった前川清のように、その人のおかしみをどんどんひき出して笑いにつなげていくスタイルがまたうけた。前川とは「コント54号」と名乗った。「バカうけ」「ややうけ」など投稿ハガキを審査するのも新しくて面白がられた。 一方昭和51年には荒井注脱退からくすぶっていた新メンバー志村けんが「東村山音頭」で大ブレーク。「一丁目、一丁目!フォ~ッ」でフジテレビにとどめを差すかと思いきや……昭和55年に吹き荒れた「漫才ブーム」。この時関東勢で唯一、孤軍奮闘していたのがツービート(主にビートたけしである)。 漫才コンビをバラシ、ひとりの面白さに大きなスポットライトを当てたのが誰あろう私であるアハハ。56年元日初のピン仕事『ビートたけしのオールナイトニッポン』スタート。私は構成兼いい間の笑い、バウバウ担当。二か月もしない内に日本中に面白すぎる戦慄が走った。 フジテレビのディレクターで古くからの知り合いの三宅恵介。この男は『欽ドン』をやっていて欽ちゃんから「東京の笑い」の薫陶を受けていた。昭和56年2月私の所へとんで来て「今たけしさんとやってるラジオ、CMのパロディとかドラマのパロディ平気でやっているでしょ。あゝいうのテレビでやれないかなァ」。その夏に特番でスタートしたのが『オレたちひょうきん族』である。 実は私、駆け出しの昭和47、48年頃、師匠の塚田茂(日劇の演出家でもあってクレージーキャッツ、ドリフターズの舞台演出家)に言われ、『全員集合』に修業の為預けられ、いかりや長介の笑いへのあまりにきびしいこだわりに逃げ出した過去がある。『全員集合』は稽古をして作りあげていく笑いなのだ。『全員集合』の絶対的な親分いかりやが皆に声を掛けるスタイルと違って、ひょうきん族は「族」というくらいで出演者もディレクターも作家も素人も皆が出ていってぶち壊すドキュメント的な笑いなのだ。表でも裏でも総て見せるスタイルとおしゃれな音楽が若者たちの心をつかんだ。 ついに欽ちゃん以来の悲願である『全員集合』に勝つ日を迎えるのだが、ビートたけしもさんまもスタッフも意外と淡々としたものだった。どう考えてもあちら(『全員集合』)が横綱であることは“笑い”をやっている者としてわかっていたからである。そっと逃げ出してから10年、やっと数字で恩返しができたなと思った。「仁義なき土8戦争」、視聴率で勝つことが互いへのリスペクト、恩返しなのだ。私は「強きを助け、弱きをくじく」為、「タケちゃんマン」の台本を書きつづけた。そしてドリフは大エースふたりだけにしぼり込み、昭和61年『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』を開始。これがまたバカうけだった。長い長い闘いだった。※週刊ポスト2021年6月4日号
2021.05.24 16:00
週刊ポスト
「休む間もなかった」(仲本)という当時のドリフ(提供)
コント55号vsドリフターズ 萩本欽一が明かす「土曜夜8時戦争」の真実
「強敵」と書いて「とも」と読む……昭和という時代には、そんな“くさい”言葉がふさわしいライバル関係があった。芸能、文化、スポーツ、ビジネス……さまざまなジャンルでの切磋琢磨が、この国を豊かにしていった。 バラエティ番組史に残る戦いが、1960年代後半の「土曜夜8時戦争」だ。 先鞭をつけたのは、萩本欽一と坂上二郎の「コント55号」が舞台上を駆け回る『コント55号の世界は笑う』(フジテレビ系1968~1970年)だ。当時、「土8」といえば歌謡番組かドラマと決まっていたが、萩本と坂上のコントに視聴者は釘付けに。放送開始からわずか半年で視聴率30%を超えるお化け番組になった。 この牙城に切り込んだのが、ザ・ドリフターズの『8時だョ!全員集合』(TBS系1969~1985年)である。 アドリブ主体のコント55号に対し、ドリフは徹底的な作り込みで知られた。水曜昼にドリフとスタッフが集まり、土曜の生放送まで連日連夜の打ち合わせ。いかりや長介は一切の妥協を許さず、稽古が深夜に及ぶこともザラだった。 スタート直後の『全員集合』の視聴率は15%前後。『世界は笑う』にダブルスコアをつけられていたが、キャンディーズや沢田研二など大物ゲストを次々と投入し、わずか1年で逆転。『世界は笑う』は1970年3月に終了し、コント55号の2人はソロ活動に移った。 萩本が振り返る。「もともとドリフとは仲良かったの。当時ぼくは大井競馬場で馬を持っていて、コーちゃん(仲本工事)とは大井でしょっちゅう一緒になってた。カトちゃん(加藤茶)交えて3人で麻雀したりね。でも、メディアがライバル構造を作るもんだから、お互い意識しちゃってさ。カトちゃん、コーちゃんとある時、『プライベートで一緒に歩くのはやめよう』って決めたんです。 当時、二郎さんとよく『ドリフに敵うわけないよ』って話してたっけ。彼らの稽古はすごいもん。毎週毎週、何時間もさ。TBSの他の番組に行くたびにドリフの稽古を見ていたから、肌で感じてたんだ。僕らは稽古なんてしないし、瞬発力で舞台を駆け回ってただけで、ドリフの『計算された団体芸』とは力の入れようが違ったよね」 盛んに取り上げられた『全員集合』との視聴率戦争について、萩本は一歩引いて見ていた。「会場のお客さんにウケたかどうかがすべてだから、数字なんて教えてくれるなとスタッフには言っていたの。僕らは台本もペラ1枚だし、ぶっつけ本番で勝手に動き回るからカメラが追い切れない。テレビ向きじゃなかったよね。『全員集合』とは作り方が何から何まで違ったから、比較しないようにしていたんだ」 一方、コント55号を追いかけたドリフも苦労は絶えなかった。仲本が語る。「相手のことを考える余裕すらなかったってのが正直なところ。毎週、いかりやさんの指示に従うだけで、もう必死ですよ。『全員集合』の合間には地方興行もあるし、ヘトヘト。いかりやさんは『他のことは考えるな。自分の番組のことだけ考えろ』ってよく言ってた。TBSからは数字のことも散々言われていたと思うけど、そういうやり取りは全部いかりやさんが引き受けてくれた。あのワンマン体制があったから、『全員集合』は成り立っていた」 そんなドリフが『世界は笑う』を追い抜いた要因について、「僕らがバンドマンだったことが大きい」と仲本は話す。「ステージで生演奏してるから、もともと生放送に向いてたんだ。間が空けば自分で繋げる。あとはリズム感。ドリフの強みは5人がリズムに合わせて一斉にずっこけられること。くしゃみひとつで転ぶのは音楽のリズムと同じ。ある種の“踊り”みたいなものでね。分かりやすくて、子供も大人も楽しめたんでしょう」 その後、1975年に『欽ちゃんのドンとやってみよう!』(フジ系)がスタートし、第二次土8戦争が勃発。萩本が語る。「お笑い番組が花開いた時代だったよね。いまの芸人は言葉で笑わせるけど、僕らもドリフも『動き』が基本だったから、脳で笑うっていうより、直感でお腹を抱えてくれた。当時は笑いが起きると文字通り会場が揺れたもんです。お茶の間でも家族全員でドカンとね。そういう笑いは、今は難しいのかもしれないね」※週刊ポスト2021年5月7・14日号
2021.05.03 07:00
週刊ポスト
絶好調の「新しい地図」の3人
草なぎは大河や映画、香取は連ドラに抜擢 彼らに”いい話”が続くワケ
 放送作家でコラムニストの山田美保子氏が独自の視点で最新芸能ニュースを深掘りする連載「芸能耳年増」。今回は、「新しい地図」の3人の活躍が続く背景について。 * * * 女優の酒井美紀が『不二家』の社外取締役に就任するとのニュースがネットを駆け回った10日、株式会社CULENの代表取締役社長、飯島三智氏がネットショップのサポートなどを手掛ける『BASE』の社外取締役候補に…とのニュースが出た。3月の決算に向け、各企業が発表する決算・人事情報を新聞各紙が報じたからだ。専門家によれば、企業が社外取締役として欲しがるのは「企業価値を高めるために必要なスキルや経験をもっている人」とのこと。まさに飯島氏はこれに当てはまる。ちなみに現在、同社のCMキャラクターを務めているのは香取慎吾。デーブ・スペクターやMattと共演する「BASE1つもあってない聞き間違いデーブ篇」と「同Matt篇」は大人気CMだ。 御存知の方も多いと思うが、株式会社CULENは、稲垣吾郎、草なぎ剛、香取慎吾の「新しい地図」3人の所属事務所。SMAP時代、長年チーフマネージャーを務め、マスコミでは度々「I女史」との呼ばれ方で、あることないこと…、いや、ないことないこと書かれ続けたのが飯島氏である。 私が知る限り、仕事を共にしてきた人たちに彼女を悪く言う人はいない。その細やかな仕事ぶりと鮮やかな采配、さらに“先見の明”によって、多くの案件を成功に導いてきた。 私もそうだが、業界女性には“飯島さんファン”が多い。SMAPに最大の危機が及んだ際、彼女のキャリアがプツッと切れてしまいそうな瞬間があった。そのとき、自分のことのように傷つき、ショックを受け、「なぜ、こんなことに?」「なんとかならないものか」と声を挙げていた女性は少なくない。各テレビ局に「女子会」ならぬ「女史会」というのが存在することを聞いたのもその頃だ。が、当時は“想い”はあっても、なかなか行動に移せなかったのではないか。 そんな飯島氏に関する「やっぱり、すごい」という記事をやっと見かけるようになった。後出しジャンケンのようだが、私はこれまで何度か記事を書こうとしたが、それがかえって飯島氏の迷惑になってしまうのかもしれないと思い留まっていた。 業界の超有名人だし、その功績も多いに認められるが、本人は「私が、私が」というタイプではない。いや、担当するアーティストのために言わなければいけないことはハッキリと言ってきた人。だからこそ、男性スタッフの中には苦手意識をもっていた人もいたように思う。まぁ、その大半が直接仕事をしたことがない人たちであって、又聞きのウワサを元になんとなく悪口を言っていただけと思われる。草なぎ『ミッドナイトスワン』に「出会った」 実は私は昨年初めて「飯島さん」について某週刊誌の連載でコラムを書いた。草なぎ剛が自身の“代表作”を新たに塗り替えたと言ってもいい『ミッドナイトスワン』に関連したインタビューをしたときのことだ。 2019年公開の『台風家族』と2020年公開の『ミッドナイトスワン』が共にオリジナル作品であるという下りになったとき、草なぎは「オリジナルなら、どんな作品でもやる」と言っていて、「出会った」と説明してくれた。どのような経緯で出会ったのかを聞いたとき、彼は何とも言えない幸せそうな笑みを浮かべて「飯島さんがもってきた話なんだよね」と。私が飯島氏をリスペクトしていることもよく知っている草なぎは、サラリと、しかし、飯島氏との絶大な信頼関係の元で自分の現在が成り立っているのだということを短い言葉で表したのだった。 2月14日スタートのNHK大河ドラマ『青天を衝け』のファーストシーンで「徳川慶喜」のテロップと共に草なぎのアップが映し出された瞬間、「思わず涙した」というファンは多かったようだ。くしくも、香取慎吾主演の『アノニマス~警視庁“指殺人”対策室~』(テレビ東京系)と共に、特に香取がこだわっていた“地上波”のドラマに揃って出演できたからだ。 その香取と飯島氏の関係は、これまで度々取沙汰されてきた。もっとも多く目にしたのはSMAP結成時、11歳だった香取の“母親代わり”…というものではなかったか。「新しい地図」が立ち上がった頃、香取は、これからも仕事を共にしたい人として、名前こそ出さなかったものの飯島氏と再びタッグを組んだと明言。稲垣や草なぎも同様だったと明かしている。 これまで私は3人の中で稲垣にインタビューをした回数がもっとも多いので、彼から飯島氏の素顔を聞く機会がよくあった。SMAP時代、ツアーの後の食事を「何にするか」「どこに行くか」という話を飯島氏は稲垣に訊ね、稲垣がメンバーに聞いていたそうだ。SMAPの中間管理職というだけでなく、話しやすさが稲垣にはあったのだろう。萩本欽一が香取慎吾の天性の才能を絶賛 10年前、東日本大震災の直後、ジャニーズ事務所が「Marching J」というチャリティーイベントを行った際、飯島氏がいわゆるファンの“はがし”を見事にやっているのを見て驚いたことがある。、ファンの中には飯島氏の姿を見つけて号泣する女性もいたのだが、彼女の話をちゃんと聞いてあげていた。それを稲垣に話したときのこと。彼は「あの人、そういうの好きだよ、」と微笑んだ。思えば、その微笑みこそ、草なぎが「飯島さんが持ってきた話なんだよね」と言ったときと同じものだった。稲垣は飯島氏の人柄や、見えないところでどれほど心配りをしているのかをちゃんとわかっていた。彼らと飯島氏の信頼関係は、長きにわたって培われてきたものなのである。 彼らにまつわる“いいニュース”も後を絶たない。草なぎは『ミッドナイトスワン』の演技が高く評価され、主演男優として複数の映画祭で名前が挙がっている。映画祭と言えば、稲垣と二階堂ふみのW主演の映画『ばるぼら』は、イタリアの『ファンタ・フェスティバル』で最優秀作品賞を受賞。香取主演の『誰かが、見ている』(Amazon Prime Video)配信のタイミングでは、萩本欽一をはじめとする大物が彼の天性の才能を絶賛している。 さて、私が飯島氏と初めて仕事で会ったのは、稲垣がMCに名を連ねていた『WIN』(日本テレビ系)で、飯島氏も私も40歳前の頃だった。スタジオ隅のモニターを共に囲んでいたとき、「こういう番組に女性の(放送)作家さんが居てくださるのは、すごくいいわよね」と言ってくれたことは、私が長年仕事を続ける大きな原動力になった。 同時期、SMAPのあるメンバーに女性誌でインタビューをした際、私が持参した差し入れを「ありがとうございます」とすぐに開封し、スタッフに配っていたのも飯島氏。編集者やカメラマンからのリクエストを休憩中のメンバーの前でひざまずいて説明をしていたのも飯島氏だったことに、私は心から驚いた。ここまで担当アーティストへのリスペクトと気遣いをする人なのだ…と…。 さらに飯島氏は「私、女性が出世するの大好き」と言い、懇意にしている女性記者の昇進祝いを開いてくれるような人でもある。だからだろう、飯島氏の周りには、常にキチンとしていてカッコイイ女性スタッフがたくさん居る。 こうした人柄と、稲垣、草なぎ、香取、三者三様の持ち味に新たな輝きを加え、「俳優」として「アーティスト」として見事に育て上げただけでなく、彼らが夢見た個展やソロコンサート、飲食店やアパレルのプロデュースなどをカタチにする傍らに居たのも飯島三智氏。女性が憧れ、女性が惚れる、本当にカッコイイ女性なのである。
2021.02.16 16:00
NEWSポストセブン
高田文夫氏が爆問田中と東MAXについて語る
代打の視聴率爆上げで拗ねる爆問田中と学割が楽しみな東MAX
 放送作家、タレント、演芸評論家で立川流の「立川藤志楼」として高座にもあがる高田文夫氏が『週刊ポスト』で連載するエッセイ「笑刊ポスト」。今回は、脳梗塞で療養となった爆笑問題田中裕二と、春から大学生になる東貴博について綴る。 * * * 西の闇営業問題の時「松本動きます」なるフレーズが話題となった。東の笑芸界では明治座公演まで始めて「高田動きます」となって、芸人達はてんやわんや。 明治座芝居の稽古がスタートって時に、松村邦洋コロナ。元気になって参加したと思ったら「爆笑問題田中裕二、脳梗塞」の報。びっくりして太田光に連絡。「田中の脳が高速になったのか」「もう大丈夫なんです。なんかお菓子食べ過ぎたみたいです」と子供のような行動。 田中が司会している『秘密のケンミンSHOW?極』は太田が代わりに司会をやるときいて「それじゃあ、あの番組のギャラ太田7、高田3で」と提案したら、泣きながら「太田9、高田1でお願いできませんでしょうか。いま手持ちの金が欲しいもので……」お願いされた。ケッ。 田中が倒れてすぐの『サンデージャポン』はくりぃむの上田が代打。話題もあったので、17.9%という日曜の朝にとんでもない数字。それをきいた田中すねて「上田が数字とったんならオレはもう1個の玉とるよ」と訳の分からない逆ギレ。仕方ないから明治座公演2月13日夜の部は太田&高田で“爆笑大問題”としてやるつもり。 そんな中、ずっと芝居に出てくれている東MAXこと東貴博が、ちょんまげのズラをつけて私の楽屋へ。「春から大学生です。コロナの中、実はずっと勉強していまして社会人枠で駒大に合格。小論文と面接だったすけど、正直大変でした。春からは金持ちだけど何でも学割です」 そういえば東MAXは大学受験の浪人中に父・東八郎を亡くし、通夜の席で欽ちゃんに「俺の所へ来るか。東さんから教わったものを全部教えてあげるから」と芸能界入り。心の中でずっと大学へ行きたかったらしい。よかった。珍しく東を誉めてしまった。 絶賛上演中の「よみがえる明治座東京喜劇」は、その名の通り東京の笑芸大結集。私が最も尊敬する喜劇王三木のり平先生の生誕の地が、劇場のある日本橋浜町。沢山の名作を生んだ舞台。 萩本欽一の薫陶を受けてきた田中美佐子、前川清、東貴博。「志村魂」の舞台をつとめてきた磯山さやか。そして演出が今をときめく宅間孝行。全体を見るはビートたけしと若き日より二人三脚で“笑い”を作ってきた私という具合。笑いの対策から感染対策までバッチリ。 沢山の幟が立つ中、かつて“三木のり平”“萩本欽一”の立ち位置に私の幟がはためく。笑芸界に身を置く人間にとって、最高の名誉である。イラスト/佐野文二郎※週刊ポスト2021年2月19日号
2021.02.10 19:00
週刊ポスト
萩本欽一は妻・澄子さんの死とどう向き合うのか
妻に先立たれた萩本欽一の別れの作法「僕は妻に線香をあげない」
 かつて3つの冠番組の視聴率を足すと100%を超えたことから、「視聴率100%男」と呼ばれ、コメディアンとして芸能界の頂点に上りつめた萩本欽一(79)。しかし、半世紀にわたって連れ添い、彼を支え続けた妻の存在は知られていない。その最愛のパートナー・澄子さんが、半年前にがんで亡くなった。欽ちゃんは、妻の病、そして死にどう向き合ったのか──コラムニストの石原壮一郎氏が聞いた。 * * * ここ何年かは、スミちゃん(澄子さん)は骨折で何回か入院してたんだけど。お見舞いに行こうとすると「すぐ退院するから、来なくていい」って言うんだよね。「もう東名に乗っちゃったよ。お見舞いの品を置いたら帰るよ」って言って強引に向かった。そしたら、近所に住んでて最後まで面倒を見てくれた義妹に、「すぐ来い」って連絡したみたい。なんだろうと思って駆けつけたら、「眉を描いてほしい」だって。入院するときは、まずお化粧道具を準備してたらしい。 昔から、ぼくが家に帰ったときには、いつもお化粧してて、オシャレなんだなと思ってた。亡くなってから義妹が「義兄さんに会うために決まってるじゃない」って。ぼくの前ではお酒は一滴も飲まなかったけど、実際は好きだった。ぜんぜん知らなかったな。 家にみんなが集まったときに、息子が「お父さんのどこが好きだったの?」って聞いたら、「うーん、『好き』って思ったことはないわね」 なんて言うから、ぼくが「じゃあ、なんで結婚してくれたんだよ」って問い詰めた。そしたら、ちょっと考えて、「ファンだったのよ。今もずっとファンなの」 そう言ってくれた。あれは嬉しかったな。「ありがとうね」 スミちゃんから初めて「ありがとう」って言葉を聞いたのも、4年前にがんがわかってからだった。 ある日、ぼくが見舞いに行ったら、帰り際に「ありがとうね」って言ってくれた。ぼくは思わず大きな声で、「スミちゃんから『ありがとう』って言ってもらっちゃった! 今日はとっても嬉しい日だなあ。バンザーイ!」 そう言って、本当に両手をあげてバンザイしたんだよね。 人間って、死を意識すると、素直になれるのかもしれない。「一生懸命」って言葉があるじゃない。命を懸けて一生を振り返って、初めて「ありがとう」って言葉が出てきたのかな。そう考えると、なおさら嬉しいな。 本当に「ありがとう」を言わなきゃいけないのは、ぼくのほうだよね。でも、あらたまって言ったら、「私、もう長くないのかしら」なんて思わせちゃう。だから、なかなか言えなかった。 やっと言えたのは、彼女が亡くなる数日前だった。もう話せないし、意識があるかどうかもわからない。布団の中で手を握って、「スミちゃん、たいへんだったね」って言ったら、ギュッと握り返してきた。その次に、「子どもたち、あいつらみんないい子だね。いい子に育ててくれて、ありがとうね」 そう言ったら、さっきの何倍も強く握り返されて、目もちょっと滲んでるみたいに見えた。 近くにいた義妹を呼んで「ほら、涙出てるよね」って聞いてみた。彼女も「そうね、泣いてるわね」って合わせてくれればいいのに、「うーん、出てると言えば出てるかなあ」なんて、冷静に言われちゃって。 それが、ぼくとスミちゃんとの最後の会話です。ぼくの「ありがとう」は間に合ったのかな。きっと間に合ったよね。死に顔は見ていない スミちゃんは、こうして旅立った。でも、最初に話したみたいに、ぼくはスミちゃんが「死んだ」という実感はまだない。 葬儀は、身内だけのこぢんまりとしたものだった。ぼくは、火葬場でも祭壇のスミちゃんの写真にも、一度も手を合わせなかった。家にある仏壇にだって、一度もお線香をあげたことがない。だって、そんなことしたら、まるで死んじゃったみたいじゃない。 恩人が亡くなったときも大切な仕事仲間が亡くなったときも、お葬式では手を合わせないことにしてる。「顔を見てやってください」って言われるけど、全部断わってきた。元気なときの顔だけ覚えておきたいからね。もちろん、スミちゃんの死に顔も見てません。まだ別れを言っていないんだから、ぼくの中では、スミちゃんは生きてます。 スミちゃんについては、まだまだ知らないことだらけ。3人の子どもたちとも、それぞれ物語があるはずだし、義妹からも近所の友達からも、スミちゃんはどういう人だったのか、どんな毎日を過ごしていたのかを教えてもらいたい。 今は、もう一回あらためてスミちゃんと出会ったみたいな気持ちになってる。未知の部分を知るのが楽しみ。「遺される」っていうと寂しい響きだけど、思いがけない特典が付いてきちゃった。【インタビュー・構成】石原壮一郎(いしはら・そういちろう)/1963年三重県生まれ。コラムニスト。「大人養成講座」「大人力検定」「恥をかかない コミュマスター養成ドリル」など著書多数。※週刊ポスト2021年2月12日号
2021.02.07 07:00
週刊ポスト
萩本欽一は妻・澄子さんの死とどう向き合うのか
萩本欽一が語る亡妻・澄子さん 唯一のデートは畑を歩いた10分間
 コメディアンとして芸能界の頂点に上りつめた萩本欽一(79)だが、半世紀にわたって連れ添い、彼を支え続けた妻の存在は知られていない。名は澄子さん。その最愛のパートナーが、半年前にがんで亡くなった。欽ちゃんは、妻の病、そして死にどう向き合ったのか──コラムニストの石原壮一郎氏が聞いた。 * * * そう言えば、スミちゃん(澄子さん)はもういないんだよね。去年の8月に82歳で亡くなって、もうすぐ半年になる。でも、あんまり実感がない。自宅に帰れば、今までどおりの調子で「あら、久しぶりね」なんて言ってくれる気がする。そんな顔しか思い浮かばないんだよね。「雲の上のまた上」の女 がんが見つかったのは、4年前。そのときはお医者さんに「あと半年ぐらい」って言われたんだけど、がんばってくれた。あんまり急だと、ぼくも3人の息子たちも、心の準備が間に合わないって思ったのかな。 亡くなる前の1週間ぐらいは、もうスミちゃんは言葉を口にできなかった。だけど、大事なことをいっぱい話せた気がする。長いあいだ夫婦をやってても、最後の最後にならないと、話せないことってあるんだね。 スミちゃんと出会ったのは、ぼくが浅草の東洋劇場に入った60年ぐらい前。3つ年上のスミちゃんは、一番人気の踊り子さんだった。新人のぼくにとっては、目を合わせるのも恐れ多い「雲の上のまた上」にいる存在だった。 そっからは話すと長いけど、無名時代のぼくはスミちゃんにとってもお世話になった。でも、ぼくがコント55号で有名になったら、スミちゃんは浅草から姿を消しちゃったんだよね。 どうにか見つけ出して、やがて子どもができたら、またいなくなった。記者会見を開いて「じつはぼく、結婚してます。子どももいます」って発表したのがプロポーズ代わり。 スミちゃんは「芸能人の奥さんなんてなりたくない。いい迷惑よ」って嫌がったんだけど、頼み込んでどうにか結婚してもらったの。初めて大学を休んだ スミちゃんにがんが見つかったとき、ぼくは駒澤大学に通ってた。病院から「検査の結果をお知らせしたい」っていう連絡があったのは、定期試験の前の週で、講義に出ないと試験を受けられない。 大学は一日も休まずに行ってたんだけど、その日に初めて休んだ。全部出席しなかったら単位は取らないって決めてたから、その講義は翌年また再挑戦することになる。でも、ぼくは今までスミちゃんのために、何かしたことなかったから。 ぼくと息子たちの前で、先生は「よくない結果でした」と話してくれた。本人にも、さすがに「あと半年」とは言わなかったけど、先生に伝えてもらった。「がんでした。いっしょにがんばって戦いましょう」って。 そしたら「ハイ、大丈夫です、先生」って力強く答えてた。 結婚してからずっと、スミちゃんは「男は仕事が大事。家のことなんて気にしないで」と言い続けていた。強がりでも何でもなくて、心からそう思って、自分のスタイルを貫いた人だった。 三男が生まれたときに、二宮町(神奈川県)の海の見える山の上に家を建てた。ぼくは東京で何本もテレビ番組を抱えて、たまにしか帰れない。でも、たまに帰って子どもと遊んでると、スミちゃんは「無理しなくていいから」って言うんだよね。「ぜんぜん楽しそうじゃない。いい父親の真似事なんてしなくていいから、笑いのこと考えてなさい」って。 仲が悪かったわけじゃないよ。でも、デートは一度もしたことがない。いつだったか買い物に行くついでに、畑の中を10分ぐらい腕を組んで歩いた。「もういいでしょ」なんて言われながら。それが唯一のデート。 奥さんというより、「頼りになるお姉さん」だったんだよね。何より、3人の息子の「立派なお母さん」でいてくれた。ぼくにとっては「理想の奥さん」でしたね。【インタビュー・構成】石原壮一郎(いしはら・そういちろう)/1963年三重県生まれ。コラムニスト。「大人養成講座」「大人力検定」「恥をかかない コミュマスター養成ドリル」など著書多数。※週刊ポスト2021年2月12日号
2021.02.06 07:00
週刊ポスト
(時事通信フォト)
仮装大賞 欽ちゃん・慎吾と参加者の「人間ドラマ」は無観客でも
 1979年にスタートして以降、すでに40年以上の歴史を誇る『仮装大賞』。コロナ禍に見舞われた今年の『欽ちゃん&香取慎吾の第98回全日本仮装大賞』(日本テレビ系)は、2月6日に番組史上初の“無観客”で開催される。『仮装大賞』はなぜ長年にわたって視聴者から愛されてきたのだろうか。『仮装大賞』といえば、全国各地の予選を通過した視聴者によるシュールでユニークな仮装作品の数々で知られている。アイデアを武器に一人で出演する視聴者もいれば、家族や友人、学校や職場の仲間とともに大掛かりなセットを披露する参加者もいる。中には驚くほどの技術を駆使した作品もあるが、大半は手作り感溢れる親しみ深いパフォーマンスだ。 1979年の大晦日に『NHK紅白歌合戦』の裏番組として第1回が放送された『仮装大賞』は、もともとお笑いコンビ・コント55号の萩本欽一が単独で司会を務める番組としてスタート。2002年元日に生放送された第65回からは、当時アイドルグループSMAPのメンバーだったタレントの香取慎吾も司会者として出演するようになった。 放送開始時の視聴者からの応募は約300組だったものの、その後爆発的に人気を博し、最盛期には1万件以上の応募が殺到。視聴率も20%を超え、1980年代から2000年代にかけては年3回に分けて放送されてきた。現在では年1回のペースに落ち着いたものの、それでも毎回約3000組の応募が寄せられており、視聴者から愛され続けている長寿番組の一つだということができる。 なぜ『仮装大賞』は40年以上にわたって愛され続けてきたのだろうか。お笑い評論家のラリー遠田氏は、その理由を次のように説明する。「『仮装大賞』が長年にわたって人気を保っているのは、その企画が圧倒的にわかりやすくてオリジナリティがあって面白いからだと思います。『仮装』という自由度の高い条件の中で、毎回、一般参加者がさまざまな趣向を凝らしたパフォーマンスを見せてくれます。 衣装や舞台装置に手作り感があって親しみが感じられる上に、参加者が必死になってパフォーマンスをする姿が人間ドラマとしても見応えがあります。参加者を優しく包み込むような萩本さんと香取さんの温かみのある司会ぶりも、この番組のイメージを良くしていると思います」コロナ禍の『仮装大賞』開催の意義 そんな『仮装大賞』だが、2021年は初となる“無観客”での開催となる。だが視聴者参加型というコンセプトのため、“視聴者とともに作り上げる番組”という点では変わらない。コロナ禍の現在、『仮装大賞』が開催されることの意義について、テレビウォッチャーでコラムニストの飲用てれび氏はこう語る。「多くの人にとってこのコロナ禍は、ステイホームが求められるなど他人との接触を減らすものだったと思います。特に文化的な活動には“不要不急”の言葉が向けられ、中止されたイベントも少なくありませんでした。 そのような中で開催される『仮装大賞』は、一般の人たちが一人や家族でセルフメイドの創作活動を実践することの楽しさや意義を、これまで以上に教えてくれるものになるのではないでしょうか」 さらに飲用てれび氏は、華美な演出を排したことで好評を博した昨年末の『NHK紅白歌合戦』を引き合いに出しつつ、“無観客”という制約ならではの新鮮な試みに期待を寄せる。「観客を入れた舞台での公開放送を数多く行ってきた萩本欽一が、無観客のステージでどのようなパフォーマンスを見せるのかも気になります。いずれにしても、無観客で行われた昨年の『紅白歌合戦』が歌手の歌を聴かせる演出で好意的に受け止められたように、『仮装大賞』もまた無観客という制約の中、違った姿で私たちを楽しませてくれるかもしれません」(飲用てれび氏) たとえ“無観客”でも視聴者が参加することができる『仮装大賞』は、緊急事態宣言下の現在であればこそ、例年よりも意義が増していると言えるのかもしれない。◆取材・文/細田成嗣(HEW)
2021.01.31 16:00
NEWSポストセブン
熱く語る個性派山田雅人氏
ぺこぱ、四千頭身…「優しいお笑い」は第7世代の専売特許?
「もう毒はいらない、差別ネタも不愉快だ」──これは笑いの“第7世代”の台頭から巷間語られている、新しい笑いのセオリーだ。萩本欽一のフレンドリーな素人イジり、ビートたけしの超毒舌、タモリのブラックジョーク、とんねるずによる部活的なノリのネタの数々――笑いは世の中とともに進化し消費され続けるものである。 ぺこぱや四千頭身など、新しい笑いのチャンネルで求められているのは、至極安直に言えば「やさしさ」だ。でも、芸において「やさしさ」ってなんだろう? どう演じ、伝えていけばいいのだろう? 「(第7世代は)確かに面白いんだけど、笑いの原点には他者との差を笑いにするっていうのがあるんだよね。コンプライアンスばかりを気にして、それをすべて捨てなきゃいけないのか。ちょっと違う気がする」 これは第4世代として括られる爆笑問題・太田光から筆者が聞いた見解だ。太田は高度経済成長期の演芸ブーム(ここが戦後笑いの第1世代とされている)で活躍した立川談志、漫才ブーム(第2世代)で頭角を現したビートたけしに私淑している。談志とたけしの持ち味は知性に裏打ちされた「毒」であり、どうしても差別してしまう人の本性を抉った笑いだ。そのテイストを存分にアレンジして、太田は現在に至っている。第7世代との笑いの質は大きく異なると、一般的には思われている存在だ。 さて、その太田の人生を物語として上演する試み(『山田雅人かたりの世界 爆笑問題・太田光物語』)が、さる10月23日に座・高円寺2から配信された。 メイン演者は山田雅人。1990年代は森脇健児と並んで関西アイドル芸人的な位置にいた。2009年から「かたりの世界」という、長嶋茂雄から藤山寛美、野球や競馬の名勝負を現代の講談として語る演物を続けている。今回、彼が新たに語るのは爆笑問題の太田光。しかも演じる傍らに太田本人が座るという異例の演出だ。「あのさ、山田さんが俺のことを語ってくれるのはいいんですけど、その場に俺本人がいていいんですか!?」 冒頭から太田が照れるやら、困ったやらの表情で傍らの山田に訴えた。山田は「御本人に傍で聞いて頂くなんて感激なんですよ」とこぼれんばかりの笑顔を浮かべ、やおら何の前触れもなく太田誕生の話へなだれ込んだ。山田「太田光は一九六五年、埼玉県上福岡市に生まれた。父・三郎は建築施工を生業に、母・瑠智子はかつて女優を目指していた。で、間違いございませんか?」  急に振られた太田は早口で「はい……二人がセックスした結果で」と笑って俯き、山田の語りに耳を傾ける。物語は太田の少年時代から日大中退を決意する場面に差し掛かる。山田「──さあ、ついに決断の時が来た! 『俺はチャップリンに憧れ、萩本欽一、ビートたけしを目指したい。大学は辞めよう、ピカソが心にいるんだ! 親父、俺を舞台に立たせてくれぇ!』。すると、父・三郎は『馬鹿野郎!』と一喝! ああ、なぜだァ!」太田「あのう……ごめんなさい、俺、そんなにアツくないんで(笑)。親父もそうじゃないしね。山田さん、気持ち入り過ぎ」山田「あー、違いました? そうかあ、僕ね、太田さんに同化しすぎて、家で何時間も練習して毎回泣いてしまうんですよ」太田「いや、俺の人生で泣くとこ少ないから。本人が言うんで、それ間違いない(笑)」 かたりの世界は、山田の熱すぎる浪花節芸と太田の冷静な注釈の応酬で展開する。山田「仕事を失った光を支える光代さん。生活費のため、彼女は質屋に行く時もいつも笑顔で支え続けたのです!」太田「あの、カミさん、必死でしたし、笑顔じゃなかったんですけど(笑)」山田「はァー、そうだったんですねえ、でも僕の中の光代さんは常に太陽のように、燦々とした笑顔を浮かべているんです!」 ここは日本一絡みづらい芸人・山田雅人の真骨頂、己の太田光伝を演りきる。ブレーキなしのスーパーカーの異名もある太田は山田決死の憑依芸を自ら楽しみ、身を委ね続けた一時間だった。 その後の第二部は、この公演の仕掛け人である高田文夫と、太田光の同期である松村邦洋が登壇。冒頭いきなり「いやー、凄かったね。もう、すっかり山田くんが太田の人生送っちゃってさ!」と、高田が72歳とは思えぬフルパワーで語りだした。それから高田、太田、松村が先の読めないクロストークを繰り広げ、話題はいつしか太田、松村と同じく同期の芸人、春一番(2014年に肝硬変で急逝)に移った。松村「ホント、光代さんのアパートで僕と春一番さんと太田さんでネタ作りしてた時、全然二人(光と夫人のこと)が付き合ってたなんて気づいてもいなかったんです。ただ手料理の豚汁を全部食べて、春さんは酒飲んで」太田「松ちゃんも、よく覚えてるよね!」高田「あんまり春一番が酒ばっか飲んでるから、心配したたけしさんが電気炊飯器をプレゼントしたんだよな」松村「はい。(ビートたけしの真似で)『アンちゃん、から酒は身体に毒だぜ。これで飯食えよ』って。それで春さん、ご飯炊かずにお酒温めちゃいまして」高田「飯じゃなくてお燗つけてんの、な?」松村「(春一番の口真似で)『いやあ、ホットウイスキー、これはいいや!』って」太田「ダメだよ、せっかくの贈り物(笑)」高田「たけしさん、それを聞いて怒ってね」松村「(再びたけしの真似で)『ダメだな、あいつはよ』なんて」太田「あげる方も貰う方も(笑)。でもなんか……」高田「しんみりしちゃって。合同追悼式じゃないんだから! で、山田くん、どう?」山田「あ! いやあ、ひたすらいい話だなって聞き惚れてましたんで」 こうして、お客に徹する山田、縦横無尽に話題を切っては投げる高田、受けては返す太田と松村のアンサンブルによってイベントの幕が降りた。配信視聴者、会場に集った関係者は全編通じる温かな笑いで余韻に浸っているようだった。短絡的にまとめれば極めて「やさしい」笑いに満足したのだ。 思えば、この夜の出演者は今様の第7世代から見れば大先輩、笑いの歴史を知らない口さがない人に言わせたら旧世代である。談志、たけしの系譜を受け継ぎ、毒と暴走を期待される太田。そして太田以上に談志・たけしにコミットした高田。松村、山田も太田とほぼ同時代を走り続けている芸人だ。その彼らが演じた「やさしい」芸には、若手と違う年季の違い、深みがあった。 惚れた芸人を思い入れいっぱいに語り尽くした山田の芸。その山田の揚げ足をとることなく、微笑ましくツッコみ続けた太田の包容力。対象へのリスペクトが込められた松村のモノマネ。それらが渾然一体となって笑いを生んだ。 そして亡くなった春一番の話題の末尾、その場をシメた高田の言葉が「やさしさ」を芸にする意味を教えてくれる。まさに江戸前の精神で。高田「おい、そう言えば春一番、最近見かけないな。あいつどうしてる?」◆取材・文/岸川真(作家)
2020.10.30 07:00
NEWSポストセブン
千鳥は第何世代?(時事通信フォト)
お笑い第7世代が席巻 第1世代からの歴史とそれぞれの特徴
 最近、「お笑い第7世代」と呼ばれる20代の若手芸人を中心としたブームが起きている。芸能界は「年齢=芸歴」ではないため明確に“世代”の境界線を引くことは難しいが、お笑い評論家のラリー遠田氏が戦後ニッポンのお笑い芸人を大きく7つの世代にわけて、その特徴を分析した。 * * * 第1世代にあたるのは、1970年代に一世を風靡したコント55号の萩本欽一や志村けんを擁したザ・ドリフターズといった芸人である。彼らは、テレビが娯楽の中心だった時代に数々のコント番組を持ち、国民的なスターとなった。 第2世代の代表格はタモリ、ビートたけし、明石家さんまの「お笑いBIG3」だ。たけし、さんまの出演する『オレたちひょうきん族』では、芸人同士がお互いの秘密を暴露し合うような“内輪ノリ”の新しい形のコントが若い世代の視聴者に支持された。これによってザ・ドリフターズが出演していた裏番組の『8時だョ!全員集合』は終了に追い込まれた。 第3世代と呼ばれるのはとんねるず、ウッチャンナンチャン、ダウンタウンといった面々。彼らは上の世代の芸人に対抗心を燃やし、新しい価値観の笑いを生み出していった。彼らはフジテレビのゴールデンタイムに自分たちの名前を冠したコント番組を持ち、そこで独自の笑いを追求していった。 第4世代の筆頭はナインティナインやロンドンブーツ1号2号である。この世代の芸人の精神的支柱となった番組が『めちゃ×2イケてるッ!』である。ナイナイを中心にして、極楽とんぼ、よゐこなどが脇を固め、ドキュメンタリー風の演出を取り入れた新しいお笑い番組の形を確立した。 また、『ボキャブラ天国』をきっかけに若手芸人ブームが起こり、ここに出ていた芸人たちが一時的にアイドル的な人気を博した。しかし、その後もテレビで生き残れたのは爆笑問題、くりぃむしちゅー、ネプチューンなど極々少数の芸人だけだった。 第4世代の時代には、個々の芸人よりもテレビの作り手の方が力が強くなっていた。「誰がやるか」よりも「何をやるか」の方が重視されるようになったということだ。芸人の名前を冠したコント番組は消滅し、芸人がテレビに首根っこをつかまれる時代になった。第6世代で芸人が“急増” 第5世代の芸人はネタ番組から出てきた人が多い。この時代の代表的なネタ番組が『爆笑オンエアバトル』と『M-1グランプリ』である。オンバトからはアンジャッシュ、タカアンドトシなど、M-1からは中川家、フットボールアワー、ブラックマヨネーズなど多数の芸人が輩出された。 第6世代の芸人の特徴は、とにかく芸人の数が圧倒的に多いということだ。それまでいくつかあったお笑いブームの影響で、芸人志望者が年々増えていた。それらを取り込むためのネタ番組も多数生まれた。特に『エンタの神様』は社会現象になるほどのブームを生み出した。『M-1』『R-1ぐらんぷり』『キングオブコント』といったお笑いコンテスト番組も増えて、ネタが面白い芸人がチャンスをつかむという風潮が一般的になった。 第7世代とは、主に「平成生まれ」の芸人を指す。彼らをめぐる状況が一気に変わったのが2018年だった。この年、『キングオブコント』でハナコが優勝し、『M-1』で霜降り明星が優勝した。いずれも20代中心の若い芸人ばかりだった。 その後、霜降り明星のせいやがラジオ番組の中でふと口にした「第7世代」という言葉が独り歩きして、彼らと同世代の芸人が何かと注目されるようになった。 彼らの特徴は、お笑い界の上下関係にあまり縛られていないことと、テレビに対するこだわりが薄いことだ。物心ついた頃からネットやスマホに慣れ親しんでいる彼らは、ユーチューブなどのメディアに対する偏見も少なく、テレビを絶対視していない。彼らがこれからのお笑い界を支えていくことになるだろう。※週刊ポスト2020年7月3日号
2020.06.23 16:00
週刊ポスト
NHKが密着しているという
田中みな実にNHKが密着、仕事場と自宅を往復だけの質素生活
 人気アナウンサー・田中みな実(33才)の私生活は、意外にも質素だ。久々に再開したテレビ収録や雑誌のインタビューをこなし、終わればスーパーで食材を買い込んで自宅にこもる日々。夜遊びに出て羽目を外すこともない。これこそが“プロフェッショナル”の姿なのかもしない──。「嫌われ女子」の異名はいずこへ、すっかりカリスマ的存在になった田中。6月13日に放送が再開された、浜崎あゆみの半自伝的小説のドラマ版『M 愛すべき人がいて』(テレビ朝日系)では、プロデューサーの秘書役を演じているが、「眼帯姿で、狂気に満ちた表情とせりふを放ち続ける。あざといキャラや美容キャラを確立した田中さんだからこそ、ギャップで魅せる“怪演”です」(テレビウオッチャー) と、女優としても高く評価されている。が、実は彼女に注目しているのは、世間だけではなかった。いま、田中にはNHKの人気番組『プロフェッショナル 仕事の流儀』のカメラが密着しているのだ。『プロフェッショナル』はその世界の超一流たちに密着し、仕事ぶりを徹底的に掘り下げる人気番組。これまでに俳優の高倉健さん(享年83)、コメディアンの萩本欽一(79才)、サッカーの三浦知良選手(53才)ら、錚々たる人物に焦点を当ててきた。「NHK側からのラブコールで密着が決まりました。2006年の放送開始から15年目を迎えますが、アナウンサーを取り上げるのは史上初。秋頃の放送を目指して、どんな日も密着し続けています。先日は『M』の出演シーンの撮影最終日にも密着しました」(NHK関係者) 仕事場と自宅を往復するだけの質素な生活を続けているのも、カメラを意識しての“あざとさ”ゆえか。「肌の調子など、メンテナンスに余念がないのはいつもと同じですよ。ドラマ『M』がオールアップして、普通ならば仲間内で打ち上げでもしたいところでしょうが、田中さんはしっかり自制しています。自炊生活を貫くのも、コロナ対策だけでなく、“業界トップ”として撮られることへの責任感からでしょう」(テレビ関係者) たしかに6月中旬のある日、都内の高級スーパーで食材を買った田中は、どこにも立ち寄ることなく自宅へと直帰していた。 プロゆえに、しばらくは恋もお預けかもしれない。※女性セブン2020年7月2日号
2020.06.19 07:00
女性セブン

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