大騒動に発展した森口尚史氏の捏造問題。医師でジャーナリストの富家孝氏と元朝日新聞編集委員で医療ジャーナリストの田辺功氏は、看護師の資格しかない森口氏が先端の臨床研究に立ち会う不自然さに気付かない記者の知識不足を指摘。さらに問題の本質がどこにあるのか語り合った。
田辺:元科学部の記者として擁護する点があるとすれば、仮に怪しい言動があったとしても、取材相手に「医師免許を見せてください」とはいえない。たいていの研究者は「それなら取材は受けない」と怒りますよ。
だから、私が記者だったとしても森口氏に「本当に医師ですか」と聞くことはないでしょうね。「なぜ正体を疑わなかったのか」と記者に問うのは酷な話だとは思います。それまでにも読売には森口氏のコメントが何回も載っていたのだから、役所の先例主義ではないですが、信用していたところはあったと思います。
ただし、今回は研究発表の手続き、ステップがおかしかったことは気づかなければいけなかった。
富家:そう、今回の発表はとにかく順序がおかしかった。一般的に学会は、研究者が提案したものはフリーで発表させてくれる。
だから、学会発表をしただけでは研究者の業績は低い扱いを受ける。論文にまとめて、初めて評価されるわけです。それに研究発表がいくら早かったとしても、同内容の論文を誰かが先に出してしまったら、論文が早かった人に特許などの権利がすべて行ってしまう。
そのため、研究者は大事な研究成果はまず論文にし、学会発表よりも、“査読”という厳しい審査を通らなければ掲載が許されない権威のある科学誌での発表を狙うのが当たり前なのです。
田辺:代表的なのが『ネイチャー』とか『サイエンス』といった雑誌ですね。事実であれば世間の注目を浴びることは間違いない偉業なのに、そのステップを踏まずに唐突に発表するなんてあり得ない。科学記事を担当する人間なら違和感を感じなければ失格だ。
編集部:記者の目が曇ったのは、ハーバード大とか東大が登場する森口氏の肩書きにもあったのではないか。
田辺:森口氏にハーバード大学客員講師という肩書きを示されていなかったら、今回の記事もこんな大きな扱いにはならなかったでしょうね。もちろん、超有名大学の先生のいうことなら信憑性が高まるだろうという、大マスコミの権威主義に陥った姿勢がノーチェックの根幹にあると思います。科学部の上司が「もっとステータスのある肩書きはないのか」なんて部下に聞くこともよくある話です。
富家:メディアとは本来、権威を疑う側に立つべきなのに、日本の大マスコミは驚くほど権威に弱い。加えて指摘すべきは、記者の好奇心の欠如ぶりです。こんな興味深い研究なら、どこの病院で、その何科で手術が行なわれたのか。
手術の執刀者や研究の責任者は誰で、どんな発言をするか。手術をうけた被験者の現在の体調はどうか、どんな気持ちでいるのか、といった話を聞きたいと思うのは当然だと思うんです。なのに、そうしたディテールの取材はまったくなされていない。
田辺:記者クラブに象徴されるように、役所や取材先が配る発表資料をもとに、独自の取材はしないでそのまま書くというのが、今はどの分野でも多い。だから「情報を与える側」の思惑を疑ってかかる訓練ができていない。その結果、功を焦ってスクープを狙ったはいいが、自分が理解して裏取りを慎重に行なうといったことが疎かになってしまっているのでしょう。
※週刊ポスト2012年11月2日号