3人のうち1人は、統合失調症患者の女性。もう1人は鬱病患者で、自殺未遂の経験を述べていた。現時点では、彼らの身元を明かせないが、そのうち1人は、近年、自殺未遂を図ったという。私は、その関係者に面会し、涙ながらに彼女がこう語るのを聞いている。
「実際に**(安楽死希望者の名前)が安楽死できるだろうと分かった時、幸せを感じていたところもありました。生きている限り苦しみと不安が続くようにも見えましたから」
安楽死が幸福を呼ぶ。実はこの逆説的結論については、3人のうち私が唯一会えた、30代後半のシングルマザーからも聞いている。
「私といるとみんな不幸になるの」と死の理由をかたる彼女の精神疾患は、どうやら幼少期の両親からの虐待が、現在の彼女にストレス障害を与えているようだった。だが、安楽死サークルに登録したことがすなわち、彼女の死に繋がるわけではない。
「とにかく登録できたことが(死を妨げる)抑止力になっているんです」
「死ねる自由」を持つことは生きる希望にもつながるのだ。これは彼女にかぎらず、世界全体で見られる現象だった。こうした安楽死の別の側面を知るにつけ、日本でも諸外国が繰り返してきたような議論の場をまずは設けた方がいいと思うようになった。
◆絶食を選んだ男
実は、私の身近でも、ある元経営者が、特異な死を遂げている。肝臓から数器官に転移した癌と闘った彼は、自らの死を記念日とする誕生日に当て、世を去った。安楽死が不可能な日本で、痛みを最大限に抑え、命を絶つこと、それは絶食だった。今の日本で、「尊厳のある死」──それは延命治療を中止する「尊厳死」とは違う――を迎えるためには、もはやこうした方法しかないのだろうか。