「谷沢vs星野」の構図が広まっていった背景
引退後、谷沢はいずれ監督に就任すると思われたが、75歳を迎えた現在に至るまで実現していない。前述の6人のうち、谷沢以外の5人は監督やコーチとして中日のユニフォームを着ている。谷沢が古巣に復帰できない原因として星野との確執も取り沙汰されていた。
「39歳の1986年オフ、谷沢さんは新たに就任する星野仙一監督に『監督・谷沢は選手・谷沢を使えるか?』と言われ、引退を決断したと伝えられてきました。ここから2人の関係がギクシャクし始めたと噂され、『中日で強い影響力を持つ星野さんの目が黒いうちは、谷沢さんが監督になることはない』と言う人もいました」
谷沢は江本孟紀のYouTubeで、星野監督との会談の数日前に球団から来季の構想外を伝えられ、引退を決意していたと話した。そのため、星野監督の発言は引退と関係なく、確執自体も否定した。
では、なぜ2人の対立が囁かれたのか。YouTubeで谷沢は、「(現役の時に)田尾、平野、中尾、宇野、郭源治を開幕前に俺の家に呼んで、決起集会をしていた。そういうのを星野さんは気に入らない」と分析している。ある時、星野から「なんで谷沢のところばっかり行くんだ」と不満を抱かれたという噂を聞いた田尾は本人に直接、「私は別に星野さんを嫌いではないですし、谷沢さんに誘われたので食事をしているだけです」と抗議したという。
「呼ばれた選手は当時の野手の主力ですし、チームリーダーの谷沢さんが家に呼んで決起集会を開くのは自然なことでしょう。ただ、平野謙、中尾孝義は、星野監督時代にトレードに出されている。“谷沢派”だからという単純な理由で放出したとは思えませんが、そんなこともあって、『谷沢vs星野』の構図が広まっていきました」
「監督がすべてじゃないよ!」
谷沢は1994年から2年間、西武の打撃コーチを務めた。この時、中日の監督は高木守道が務めており、1996年からは再び星野仙一が就任した。
「高木さんの後は星野さんの復帰が既定路線でしたが、谷沢さんがフリーだったら候補に上がったかもしれません。最も監督就任の可能性があったのは、山田久志さんがシーズン途中に辞任した2003年オフです。既に星野さんは阪神の監督になっており、球団も星野色を消そうとしていた。この時、落合博満さんと谷沢さんが最後まで監督候補として残っていたが、最終的に白井オーナーの意向で落合さんに決まったと聞いています。当時谷沢さんは56歳で、最大にして最後のチャンスだったでしょう。落合監督がうまくいかなければ、もう一度名前が上がったかもしれませんが、8年間で4度もリーグ優勝しましたからね」