ノンフィクション作家・門田隆将氏が100人を超す元兵士に取材した戦争ノンフィクションの決定版三部作『太平洋戦争最後の証言』。真珠湾攻撃から70年となる12月に上梓された第二部の「陸軍玉砕編」には、壮絶な最前線が再現されている。サイパン戦にまつわる帰還兵の声を基に、門田氏がレポートする。(文中敬称略)
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玉砕の島となった「サイパン」からの生還者も少ない。サイパン島は、米軍が日本の「絶対国防圏」を打ち破るために攻略に精力を注ぎ込んだ地だ。
斎藤義次陸軍中将が率いる第四十三師団をはじめとする四万人にのぼる将兵は昭和十九年七月七日、玉砕する。その中で奇跡的な生還を遂げたのが西尾四郎(現姓は「下田」。当時二十歳)である。西尾は戦車第九聯隊の生還者で、現在八十八歳になる。
満洲・東寧にいた西尾たち戦車隊がサイパンに上陸したのは、昭和十九年四月十日のことである。
「二か月後の六月十一日に敵の空襲が始まりました。二日後の六月十三日には、艦砲射撃も加わりました」
それは、海を埋め尽くすほどのアメリカの艦隊の砲撃だった。砲弾の数は十八万発に及び、日本軍による「水際撃滅作戦」は、この砲爆撃で頓挫する。あらかじめ構築していた日本軍陣地は大損害を受けたのだ。
そして六月十五日朝九時前、米軍は上陸を始めた。
西海岸に布陣していた第四十七旅団や戦車第九聯隊の第四中隊は、真っ正面から海兵隊を攻撃。だが、上陸支援の敵の艦砲もすさまじく、日本軍の攻撃も米軍二千人あまりを死傷させたにとどまり、いずれも壊滅した。そして日没までに二万人を超える米軍上陸を許すことになった。
西尾たちが九五式軽戦車で敵陣地に夜襲をかけたのは、その翌日夜のことだ。
「戦車のうしろに歩兵を乗せて夜襲をかけよ、という滅茶苦茶な命令でした。砲塔の外には、取っ手があるから、三人の歩兵を乗せましてね。夜中十二時過ぎに突撃に入ったんです。でも現地へ着いたら、乗ってた兵隊を皆、振り落としてきてた。あの道を夜、灯りもつけんと走るんやから、上に乗ってる者はたまらんわ。兵はおらんけど、こっちはそのまま米軍の中へ突っ込んだわけやけどね」
それは戦車隊による決死の突入だった。
「敵は海岸線にM4の戦車を一番うしろへ置いて、前に百五ミリの対瑠弾砲、そのうしろにバズーカ砲を持って並んで、真っ暗闇の中で潜んどったんです。そこへ私らが突っ込んだ。沖の艦船からはぼんぼん照明弾が上がりよる。照明弾は、パラシュートがついててゆらゆら、下りてきて真昼のように照らしよったね」
その中で、西尾たちは米軍めがけて撃ちまくった。
「砲手は車長の中尾(重一)曹長です。“撃てえ、撃てえ!”という曹長の声と共に撃ちまくりました。私は機関銃。さあ、何連装撃ったかな。一箱分は撃っとるから、二千発は撃ってると思う。とにかく撃って撃って撃ちまくった。敵の攻撃もすごかったね。あっちには曳光弾が入ってますからね。赤や青い弾がびやーって飛んできた。惜しみなしに撃ってくるから赤や青の光が交差しよる。とにかく凄い攻撃でしたわ」
戦場の音は鼓膜を突き破るほどのものだった。
「私、今も右の耳は全然聞こえんですよ。戦闘になったら、狭い砲塔の中で命令は大声で叫ばなければ何も聞こえません。飛んでくる向こうの弾もがんがん当たりますからね。逃げるに逃げられない。もう怖いとか、そんなのはないです」
やがて撃ちまくる西尾たちの戦車は集中砲火を浴び、キャタピラが外れて動けなくなってしまう。
「車長の命令で外に飛び出しました。前でも横でも友軍の戦車がぼんぼん燃えていた。戦車の中には弾も燃料もある。だから、火災を起こすと五、六時間は燃える。あちこちで戦車が燃えている中、中尾曹長が、“一旦、中隊へ引き返す”ちゅうて、三人でそこから脱出したんです」
中隊本部の場所に辿り着いたのは、六月十八日だった。だが、帰ってこられたのは、西尾たち三人だけだった。激戦の中、戦死者は増え続け、七月五日、戦車第九聯隊の生き残りは、わずか二十四人になっていた。サイパンに上陸した時、八百人もいた精鋭部隊が、ほぼ全滅していたのである。
※週刊ポスト2012年1月1・6日号