「とにかく豪快で人間臭い方でした。あんな経営者にはもう二度と出会えないでしょうね」
9月16日に死去した元アサヒビール社長の樋口廣太郎氏を悼むのは、『ビール最終戦争』などの著書もあるジャーナリストの永井隆氏。樋口氏が住友銀行の副頭取からアサヒビールの社長になったのは1986年。当時、新聞記者だった永井氏は、初対面から強烈な印象を受けたという。
「自宅に夜回り(取材)に行ったときのこと。あいにく樋口さんは不在で、本人も近所の酒屋を夜回り中。『今度アサヒビールの社長になりました樋口です』って名刺を配り歩いていました。それが終わると疲れも見せずに取材に対応してくれたばかりか、帰りには私の曲がったネクタイを直しながら、『頑張れよ!』って労いの言葉までかけてくれました」(永井氏、以下同)
社長就任後わずか2か月で樋口氏が取引先に配った名刺はおよそ2500枚。自社の工場や支店もくまなく回り、パート従業員にも分け隔てなく声をかけた。さらに、過去のリストラで会社を去った社員の住所を追跡し、再雇用を懇請したエピソードも残されている。
人情味あふれる樋口氏ゆえに、ときには社員を烈火のごとく叱り飛ばし、“瞬間湯沸かし器”の異名を取ることもあった。
「『スーパードライ』の開発者、薄葉久さんもしょっちゅう怒鳴られていました。彼はあまりの怖さに大量の冷や汗をかいて、いつも京橋の旧本社から三越まで歩いて下着を買い替えに行くんです。その後オフィスに戻ると樋口さんから内線が入り、『お前たちには期待しているんだぞ』とフォローされる。アメとムチの人心掌握術に長けていました」
アサヒ躍進のきっかけとなった『スーパードライ』の大ヒットは、樋口氏の無謀ともとれる積極投資が成し得た偉業といえる。
「1987年の発売から5年間に行った設備投資は、それまでの15倍の5672億円。広告宣伝費も50億円から一気に250億円にするなど、とにかく型破りでした。失敗すれば会社の存亡すら危ぶまれる諸刃の剣でしたが……」
あっけらかんと前例を覆す破天荒ぶりは、ビール事業に限った話ではない。かつて、冗談とも本気ともつかぬこんな発言までしている。
〈私は当初、会社の収益を確保するために、日本一のパチンコ屋を作ろうとしたんです。向島の倉庫があるところに、30階のパチンコ店と、隣に31階建てのガレージを建てて、だいたい50億円の収入を上げて会社を立て直そうとした〉(週刊ポスト2001年7月13日号)
工場の一角に物故者の供養塔を建てたり、売却済みの浅草・吾妻工場の土地を買い戻したり、財テクで稼いだり……。実際に「チャンスは預金できない」という持論を次々と行動に移した樋口氏のエピソードは、挙げればキリがない。
「バブル経済を背景に運に恵まれた面はありますが、人を惹きつけてやまないネアカな性格と強力なリーダーシップを発揮する樋口さんが社長になっていなかったら、“夕日ビール”と揶揄されていたアサヒビールが業界首位に躍り出ることもなかったと思います」
財界のみならず政界とのパイプも太かった稀代の名経営者。その訃報は、混迷極める日本経済全体にとっても大きな痛手となる。