突然の災難を惜しむ声は方々からあがっている。作家で五感生活研究所の山下柚実氏もそのひとりだ。
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2月19日夜、東京神田にある老舗そば屋「かんだやぶそば」で起きた火災。テレビのニュースやワイドショーでは繰り返し、赤く燃えさかる炎と木造家屋とを映し出しました。
「かんだやぶそば」は池波正太郎ゆかりの蕎麦屋などと紹介され、連日列ができていた人気店。「かえしが燃えた」、「代々受け継がれてきた味が失われた」。テレビは、繰り返し繰り返し、蕎麦の「かえし」を問題にしていました。
「かえし」とはご存じ、醤油や砂糖から作られた、そばつゆの原液のようなもの。それが火事で燃えてしまったらしい。火災は大変な災難であり燃えてしまった「かえし」は味を構成する大切な要素です。が、そのことばかりに話題が集中するのを聞いていて、ちょっと不自然さを感じたのは私だけでしょうか?
大正時代に建てられた建物は、板塀に囲まれ、都心部には珍しくゆったりとした空間でした。硝子ごしに、和風の中庭を見ながら蕎麦をすする。その空間に、落ち着きと愛着を感じてきた人も多いはず。建物は東京都選定の歴史的建造物にも指定されていたとか。
「五感」というテーマで取材や執筆に取り組み、こだわりをもっている私としては、「かんだやぶそば」といえば空間に響くあの独特の声・音の響きのことが、まず想起されます。
店内に入ると、「いらっしゃいぃぃぃーーー」「にめいさんーーー」。
注文すると「せいろぉーーーーいちまいーーー」。
長く柔らかく伸ばした語尾、響き渡る声。女将が注文を受けると、それを店員が受けてまた声を重ねる。声と声とが交錯し、独特の音風景が創り出される。東京の蕎麦屋から消えつつあり、しかし「かんだやぶそば」が維持してきた、際立つ個性の一つでした。
長く伸ばす声は、蕎麦の「長い形状」「喉ごしの味わい」とも、響き合っています。昔の物売りは、商品に合わせて売り声を変えていました。例えばイキのいいイワシを売る時は、「あーら、いわーしこいっ」。きびきびと短いキレのある声は、獲れたてで鮮度が良いことを、音の質感から伝えていたのです。「かんだやぶそば」はそうした商売の「型」を伝えてきた貴重な店でした。
焼けてしまった木造家屋は、店内に響く声をより美しく、心地よく響かせる音響装置でもあったのです。
取材を受けたお店の方は、「火災を受けてもめげず、なんとか再建したい」と語っていました。味の再現はもちろん大切ですがそちらはさほど心配はなさそう。「かえしはその都度つくるもの。再建後も同じ味は出せる」と店主は語っている。それより、新しいやぶそばになった時、もし、あの心地よい空間が再生されなかったら……。
建物の構造や素材、庭の設計や配置も重要になるでしょう。どこにでもあるような四角いビルになり、あの心地よい音風景が失われてしまったらあまりにも寂しい。今回の火事で、「かんだやぶそば」が伝えてきた商売文化の様式性、心地よい五感空間が喪失してしまわないことを、祈ります。