プロ野球選手になった者は、誰もが故郷を代表するエリートだった。しかしそんな選手でも、プロで一度レギュラーの座を逃せば、「専門性」を高めるなどして生き残り術を模索せねばならない。
1967年、春の甲子園では投手兼遊撃手、夏は外野手として春夏連続甲子園出場を果たした若狭高(福井)の川藤幸三は、1968年に阪神に入団。しかしケガもあって伸び悩んだ川藤は、生き残るため一計を思いついた。
「投手の中継ぎや抑えが注目され始めた時代やったから、野手に同じようなポジションはないかと考えた。走る、守るでは目立てんけど、代打ならイケるんではないかとね」
むろん、代打の中にも優先順位がある。川藤は“代打のレギュラー”を目指して努力を積み研究をした。
「お膳立てされた場面で打席をもらえるのが代打。ヒット1本でヒーローになれるけど、それは同時に、打てないと全責任を負うくらいの覚悟がいる。『1打席1安打1打点』が最低条件になるんですわ。4番以上の重圧ですよ。まァ、その重圧を苦しいというのならプロとしてアホやけどね。だから1打席といえども、ベンチでボーッとしているわけではない」
(文中敬称略)
※週刊ポスト2013年3月15日号