長嶋茂雄や王貞治、沢村栄治や景浦將──プロ野球ファンならば誰もが知っている伝説的プレーヤーだ。しかしその陰には、彼らに負けずとも劣らない成績やインパクトを残した者たちがいる。普段はあまり光が当たらないが、プロ野球史に確かな一歩を残す名選手の姿に迫る。
打者で忘れられない名選手といえば、巨人の中島治康だ。1938年秋季(※注)に打率.361、本塁打10、打点38をマークして、日本プロ野球最初の三冠王の座に就いた。(※注 1937~1938年は1シーズン制ではなく、春季・秋季の2つの大会が開催され、それぞれの優勝チームが12月に年間総合優勝決定戦を行なう方式だった)
「子供の頃スタンドから見ていたイメージしかありませんが、すごい打者だった。オープンな構えからアウトステップで打っていく、今でいう広角打法で、チームでは“班長”という軍隊用語で呼ばれていた」
と、“フォークの神様”杉下茂氏はいう。班長という仇名は、入団直後に軍に応召したためだった。戦後は大洋で兼任監督を務め、1951年に引退。1963年には野球殿堂入りを果たした。
タイガースの初代主将・松木謙治郎はロイド眼鏡がトレードマークの左打ちスラッガー。ライバル・沢村栄治を打つため、打撃投手をマウンドの数歩前から投げさせた猛練習で知られる。
「明大の大先輩ですが、この人もすごかった。対戦して近目を攻めても逃げない豪傑」(杉下氏)
応召して沖縄戦を経験。戦後は阪神の監督に復帰して後進を育てた。
巨人、阪神とくれば、中日は“元祖ミスタードラゴンズ”の西沢道夫。満16歳4日で公式戦に出場した最年少記録を持つ。戦前はシーズンに20勝する投手だったが、戦後は野手に転向。1952年に、首位打者と打点の二冠を獲得、1954年には主砲として初の日本一に貢献した(1958年に引退)。背番号「15」は、今も中日の永久欠番である。
※週刊ポスト2013年5月17日号