【書評】『危機言語 言語の消滅でわれわれは何を失うのか』/ニコラス・エヴァンズ著 大西正幸、長田俊樹、森若葉訳/京都大学学術出版会/5460円
【評者】井上章一(国際日本文化研究センター教授)
現在、世界中で数多くの言語が、姿をけしだしている。四半世紀ほど前まで、話し手が何人かのこっていることは、たしかめられていた。だが、今はもう誰もそれをしゃべれなくなっている。そんな言語は、すくなくない。著者は、そういう絶滅危惧言語の研究にいどむ言語学者である。
こう書けば、たいていの人は「のんびりしたお仕事ですね」と思われよう。だが、そういった言語が役にたつことも、なかったわけではない。たとえば、さきの太平洋戦争で、米軍はナバホインディアンの言葉に、活躍の機会をあたえている。ナバホ語による無線通信を、とうとう大日本帝国軍は解読することができなかった。その点でも、米軍は優位にたつことができたのである。
ずいぶん無粋な話を、紹介してしまった。うしなわれつつある言語の研究には、もちろんさらに大きな展望もある。
ここしばらく、北米を中心とする世界の言語学界では、普遍文法論が幅をきかせてきた。人類のつくりだした言語には、共通の規則がある。言葉をつむぎだす脳のつくりに、民族的なへだたりはない。だから、どんな民族の言語も、同じようにくみたてられている。その普遍性をおいかけようとする一派、チョムスキーの亜流が、大勢をしめてきた。
名詞で時制、過去現在未来をしめす言語はない。チョムスキー派のなかには、そんな理論をうちたてた言語学者もいる。しかし、著者によれば、カヤディルト語の名詞は時制により形をかえる。「彼はウミガメを見た」と、「彼はウミガメを見るだろう」の「ウミガメ」は、ちがう言葉になっている。うしなわれつつある先住オーストラリア人の言語は、普遍文法のなりたたないことを、おしえてくれるのだ。
演繹的な大理論は、しばしば世界の多様性を見そこなう。あたうかぎりその多様性とともにあろうとする著者へ、喝采をおくりたい。言語研究にかぎらず人文学の魅力はそこにあると、私も思う。
※週刊ポスト2013年5月31日号