終戦から68年が過ぎ、戦後生まれが1億人を超え、総人口の8割近くに達している。太平洋戦争を直接知る者は年々減り、当時の実態を証言できる者は限られてきた。今でこそ、あの大戦を振り返るべく、元日本軍兵士たちの“最後の証言”を聞いてみた。
証言者:内貴直次(92) 元陸軍歩兵第224連隊
大正10年生まれ。甲種幹部候補生に合格、昭和18年6月に歩兵第224連隊へ配属。12月少尉任官。昭和19年1月、ニューギニアのサルミ上陸。終戦後、捕虜となり、昭和21年6月、復員。
* * *
西部ニューギニアのマッフィン湾岸にある「入江山」は、彼我攻防の第一線だった。昭和19年6月、私たち歩兵第224連隊は米軍の猛攻にさらされていた。ともかく敵は我が陣地にやたらと弾を撃ち込んでくる。前方からは銃弾、頭上からは砲弾、耳をつんざくような銃砲声である。
私はこの入江山を死に場所と定めた。これから総攻撃だ。そう思うと、飛び交う弾丸も不思議と怖くなくなった。そして、ふと頭上に炸裂した迫撃弾を見上げた、その瞬間だった。破片が私の左足を砕いた。あっという間の出来事、感覚はまったくなかった。骨は砕け、飛び出した血管が土の中に埋もれていた。
「内貴少尉がやられた」
軍医が駆け寄ってきて衛生兵と共に手当てをしてくれた。といっても、骨や肉片を拾い集めて包帯で縛るだけだ。木の枝で造った担架に乗せられそうになって、私は必死に抵抗した。敵前で小隊長が退くわけにはいかないからだ。ここを死に場所と決めたのだ。後退する必要などなかった。
「俺は下がらないぞ!」
敵弾が飛び交う中で叫んだ。軍医は「何を言うか!」と無理やり兵に命じて私を担架に乗せた。俺は下がらないとまた叫んだが、身体は後方へ運ばれていった。悔しさのあまり涙が出た。
かくして私は戦線を離れて連隊の衛生隊に入れられた。そこはまさに地獄の一丁目だった。傷ついた将兵たちの呻き声に満ち、身体中をウジ虫にたかられ「痛い、痛い」とのたうちまわっている兵もいた。十分な治療など受けられなかった。絶望し、手榴弾で自決する者もいた。
一週間後、ガス壊疽のため脚を切断することになった。局部麻酔で、自分の脚を切るのこぎりの音が聞こえた。軍医が神経を引き出して切ったときは、さすがに5~6人がかりで抑え込まなければならないほど暴れたらしい。そのときの記憶はほとんどない。私を看てくれていた和田鉄三君によると、彼の手を握っていた私の力があまりに強く、つぶれそうだったそうだ。
切断してからも3か月は耐え難い痛みが続いた。なんでこんなに痛い思いをしなければならないのか。早く死にたいと思った。周りは次々と死んでいった。
食糧も支給されなくなった。「これが最後だ」と言って渡された乾パンの袋には確か30個くらい入っていたように思う。毎日5粒ずつ、それを食べた。狂った兵が「乾パン欲しいー、乾パン欲しいー」と叫んでいた。5粒分けてやったら、「ありがとうございましたー」と叫ぶ声が聞こえてきた。望みが叶って満足したのだと思う。彼は翌朝、瞑目した。
それから間もなくして参謀本部付になり、救護の兵に迎えられて衛生隊から脱することができた。後方に下がって一息ついていた時、どこからともなく兵が現われ、私の目の前に1本のバナナを差し出した。飢餓の時に他人に食べ物をくれるはずがない。断わると「内貴少尉殿に食べていただきたいのです」と言う。その兵は名乗らずに去った。
理由はわからずじまいだが、ひょっとすると、幾度も敵陣に潜入し銃弾を浴びて血みどろになりながら偵察していたため、ある程度、名が知られていたからかもしれない。
有り難くて胸がつまった。バナナを前に号泣した。今でもそれを思い出すと、私は涙があふれてくる。
●取材・構成/笹幸恵(ジャーナリスト)
※SAPIO2013年10月号