わかりやすいものばかり求め、理解できないものを避ける最近の日本人にとって、純文学は縁遠いものとなりつつある。読者には自分なりの解釈を導き出す想像力、読解力が必要となるからだ。
純文学界の新人賞である芥川賞を『爪と目』(新潮社)で受賞した藤野可織氏(33)は、「わかりやすさ」を追い求める日本人をどうみているのか。またそうした中で、純文学や小説が何をどう描くべきだと考えているのか。
──芥川賞受賞作の『爪と目』は純文学ホラーと称され、怖い作品だと評されている。過去の著作も読者に恐怖を感じさせる作風に見えるが、そうしたテーマ設定には何か狙いがあるのか。
藤野:いえ、別に私は恐怖をテーマにして書いているわけじゃないんです。頭に浮かんでいることをそのまま、できるだけ正確に言葉にしようとして書いたら、怖いと言ってくださる人が多いというだけ。最初から恐怖小説を書こうと決意して書いたことはないんです。ただ、恐怖というのはそこらへんに満遍なくあるものだと思うので、自然にそうなってしまうのかもしれません。
──恐怖は満遍なくあるもの?
藤野:恐怖を「非日常」だとは思いません。日常に、身近にあると思います。一見、自分とは無関係な程遠いと思えることほど身近なものだと思うので。
『爪と目』では、真冬に母親がベランダに出た時に、小さな娘が中から鍵をかけてしまってそのまま死んでしまったのではないかという疑惑を書きましたが、死ぬところまでいかなくても、そういうことって意外とごく普通にありますよね。大きな殺人事件であればニュースになるけれど、日常の中にある何気ない恐怖はニュースにもならない。でも、確実にすぐ側にあるものです。
──恐怖を描くのは、非日常ではなく日常だからということか。
藤野:私の場合は、今のところ「平凡な人の平凡なところ」を書きたいと思っています。怖いものを書くにしても、ニュースで大量に報じられる殺人事件のようなものは、私みたいな平凡な人間から見ると、言い方は適切かわからないけれど、やはり“非凡”なことに見えます。だから今まで、殺人事件のようなモチーフは中編では扱ってきませんでした。
──平凡には平凡の怖さがある。それは小説でしか描けないものだと。
藤野:平凡な人の平凡なところが、実はその人の強さだったり怖さだったりすると思う。たとえば、人を傷つけておいて全然それに気が付かない鈍感さ。そういうものは実は誰の中にでもあります。自分の近くにいる人に対して、「この人の鈍感さにほんま腹立つわ」とか、「そんな無神経なことばっかりよう言うわ」とか思うことありますよね。私もそういったことをよく感じます。
一方で、私自身にもそういう人を傷つけて平気でいられる鈍感さはきっとある。人間はそういう鈍感さに助けられて生きていて、それがなければ生きていけないものではないでしょうか。そうした平凡の中にある、気付かれにくい怖さは書いていきたいと思っていて、特に『爪と目』では中心に据えて書きました。
登場人物の「あなた」も平凡で、他人を傷つけることに鈍感な人物です。平凡な日常を書いていく中で、その平凡の極致が実は一番怖いんだということを書き残しておければと考えました。
●藤野可織(ふじの・かおり)。1980年、京都生まれ。同志社大学文学部卒業。同大学院の文学研究科美学芸術学専攻博士課程前期に進学し、編集プロダクションでカメラマンのアシスタントなどを務める。その後、小説家への道を歩み始め、2006年に『いやしい鳥』で第103回文學界新人賞を受賞し、作家デビュー。2013年、『爪と目』で第149回芥川賞を受賞した。
※SAPIO2013年10月号