本書で登瀬は、弟の友人〈源次〉から自作の絵草紙を街道筋で売り歩いていたという直助の意外な一面を聞かされたり、吾助の押し掛け弟子〈実幸〉と不本意な結婚もするが、基本は板ノ間で仕事しかしていない。それでいて驚くほど人間的に成長を遂げる様は成長小説として新しく、また弟の死後も読み継がれた草紙の行方や実幸が婿に入った真の目的など、謎も盛り込まれ、飽きさせない。
「確かに旅や冒険を通じた成長もありますが、例えば伝統芸能の世界には一心に芸を磨く中で世界や人間のことまで知り尽くせる方がいる。広く浅く世界を知るより、一つのことを究める中で自分をも深めていく人に、私自身は憧れるので」
吾助は言う。〈おらの技はよ、おらのものではないだに〉〈おらのこの身が生きとる間、ただ借りとる技だ〉〈借り物だで、大事にせねばならんのだわて〉
一見閉ざされた板ノ間の、何と過去や未来に開かれていることか。道を守るとはたぶんそういう行為なのだ。
「特に芸術品ではなく日用品を作っている吾助の場合、名声など二の次。代々の技を預かる身で我を出すのはみっともないという弁えの裏には、いい櫛さえ作れば見る人は見てくれるという安心感もあるんでしょう。
対して今は自我や個性を徒にアピールしたり、声が大きな人の言ったもん勝ち的な風潮が、パッと見さえよければ手を抜いてもいいという悪循環を生んでいる。そういうのはあまり美しくないと私は思うので、作る側は淡々とイイものを作り、使う側もイイものは正当に評価した時代の景色を書いておきたかった」
別名・斧折樺というほど堅いミネバリの木を、男は挽き、女は磨くと決められた時代に櫛を挽くのだから、多少の苦労は〈仕方ない〉。が、登瀬の「仕方ない」は松枝たちが諦めがちに言う仕方ないとは別物で、弟が草紙に託した夢や夫の真意と向き合い、彼女なりの幸せを切り拓く姿が、読者には我が事のように嬉しい。
「実は連載中も『登瀬には絶対幸せになってほしい』と、声援が物凄くて(笑い)。私自身、女の幸せについてとても考えさせられました」
作者は淡々とイイものを書き、読者はその作品世界を存分に堪能する。まさに〈多くのものが込められているのに、無為の景色を勝ち取っている〉吾助の櫛にも似た、職人の仕事である。
【著者プロフィール】
木内昇(きうち・のぼり):1967年東京生まれ。中央大学文学部卒。高校大学はソフト部で活躍し「女は野球をやらせてもらえない恨みもあった、かも(笑い)」。出版社勤務を経て独立し、インタビュー雑誌『Spotting』を主宰するなど活躍。
2004年『新選組 幕末の青嵐』で小説デビュー。2009年第2回早稲田大学坪内逍大賞奨励賞、2011年『漂砂のうたう』で第144回直木賞。著書は他に『地虫鳴く』『茗荷谷の猫』『笑い三年、泣き三月。』『ある男』等。167cm、B型。
●構成/橋本紀子
※週刊ポスト2014年1月24日号