ナレーションにも賛否両論があるようです。
私がナレーションに求めたいのは、必要最小限の説明を添えることによって、物語をより立ち上がらせ、主人公たちをいきいきと輝かせること。その役割から、ちょっと逸脱していませんか。
あの震えるような声を聞くと物語よりも黄色い髪の毛の方の顔が浮かんでしまう。いつもその声の主の「存在」ばかりを意識させられてしまう。
毎日「ごきげんよう、さようなら」と締めくくるナレーションもどうなのか。いくら村岡花子が使ったセリフの引用だとしても、内容とは関係ないその言葉が突然入ってくる唐突さ。耳につく五月蠅さ。そこまでして、ナレーションをする人物を目立たせる必要は、ないのではないでしょうか。
『赤毛のアン』は一見、子どもむけファンタジーや少女の夢物語に見えるかもしれませんが、そもそもヤワな物語ではない。描かれているのは切実で繊細でリアリティのある世界。誰にも愛されず、求められもしなかった赤毛の孤児が、いつまた捨てられるかと存在の不安を抱え、おびえ傷つきながら、それでも生きていこう、誰かとつながろうと格闘する。
アンは「女の子」という立場に逃げこまない。草や木や空と語りあいながら明日を生きる力をもらう。そんなアンの姿に、大いなる勇気をもらった少女たちが何人いたことでしょう。
生きにくい状況の中で、どう生きていけばいいのかを指し示す指標の役割を果たしてきた『赤毛のアン』。読者の想像の翼によって支えられてきた繊細で豊穣な世界が、紋切り型の演出や通俗的な自己主張によって吹っ飛んでしまわないことを、祈ります。
『赤毛のアン』の中でもっとも戒められていたのは「虚栄心」ですから。