そんな権藤に1997年、横浜から声がかかる。大矢明彦監督就任の際、当時の球団社長・大堀隆が「大矢では大人しすぎる。誰か候補はいないか」と“物の言える”コーチを探していたのだ。私にも意見を求められたので、権藤を推薦すると、大堀は権藤を気に入り、1997年に優勝を逃すとすぐに監督に据えた。初めての監督職だったが、「声がかかった以上はやるしかない」と、権藤は快諾した。
私はその時、権藤に「1年間通してチームを追いかけさせてもらいたい。それも西武と対比したものでやりたい」と申し出た。この年、必ずこの2チームは面白くなると確信があったからだ。これが雑誌『Number』での連載「決断」になった。
権藤は「どうなるのかわからないチームなのに……」と笑いながらOKしてくれたが、西武はなかなか球団が許可をくれず、最終的には親交のあった東尾修監督のおかげで何とかなった。球団の許可なく監督の個人的な気持ちで始めさせてもらった、思い出深い連載だった。
権藤野球は「バントをしない」「サインは最小限しか出さない」「夜間練習を強制しない」という“三無主義”。
「投手はバントで1つアウトをもらえるのが一番ありがたい。サインは選手にプレッシャーを与えるだけだ。黙っていても選手は自分で考えて動くんだよ。監督は何もしなくていい」
権藤はそう言ってビールを飲みながら、石井琢朗や鈴木尚広が夜遅くまでバットを振っているのを監督室の窓から見ていた。
あの頃、権藤が私の部屋に来て、当時私が使っていたゼブラ社の特注ボールペンを見るなり、「これがウソも書ける、よく書けるペンというヤツか」と笑っていたのを思い出す。もう一度、権藤の優勝の記事を、そのペンで書いてみたい。
※週刊ポスト2014年6月6日号