週刊ポストで『白球水滸伝』を連載してきたスポーツライター・永谷脩氏が、6月12日、急性骨髄性白血病のため逝去した。68歳だった。病床に伏しても一度も休載することなく完遂。現場主義を貫いた取材力の高さは広く知られ、「球界の真実」を原稿で表現してきた。同連載を元に振り返る。
●1998年横浜優勝、西武との日本シリーズ
永谷氏は周囲のスポーツ記者が相手にしない対象者でも、話題になると信じた人物には深い取材を重ねた。その好例が1998年の横浜である。38年間優勝を逃している横浜が本当に勝てるのか、誰もが懐疑的だった。
〈(前任の)大矢明彦監督就任の際、当時の球団社長・大堀隆が「大矢では大人しすぎる。誰か候補はいないか」と“物の言える”コーチを探していた。私にも意見を求められたので、権藤(博氏)を推薦すると、大堀は権藤を気に入り、1997年に優勝を逃すとすぐに監督に据えた。初めての監督職だったが「声がかかった以上はやるしかない」と、権藤は快諾した。
私はその時、権藤に「1年間通してチームを追いかけさせてもらいたい。それも西武と対比したものでやりたい」と申し出た。この年、必ずこの2チームは面白くなると確信があったからだ。これが雑誌『Number』での連載「決断」になった。〉(『白球水滸伝』)
権藤氏が当時を振り返る。
「突然、連載をやりたいといってきてね。(どちらかの監督が)途中で辞めたらどうするのと聞くと、“その時は何とかします”といっていた。1年経ったら両方優勝しちゃったからね、驚きましたよ。あれは永谷さんの執念だったんだろうね。
日本シリーズの直前には、『週刊ポスト』で東尾修と対談した。戦う前の両監督の対談なんて前代未聞ですよ(笑い)。でも永谷さんから“やりましょうよ”といわれ、2人とも“いいよ”と快諾したわけです」
権藤氏は、永谷氏の取材スタイルについてこう語る。
「永谷さんのすごいところは、やっぱり“足”。取材力ですよ。どこであれ現場へ行って話を直に聞く。でもグラウンドに来ても取材しないんです。皆がいる前では“後でね”と挨拶だけして、試合後に酒を飲みながら話をする。酒に弱かったからすぐ寝ちゃっていたけどね(笑い)。
優勝した後、本を出したいといわれて、OKしたんです(小学館刊『勝つ管理 私の流儀』)。永谷さんは驚いていた。僕は常日頃から、本を出すような大監督じゃないと言い続けていたから、OKするとは思わなかったんでしょう。でも1年間も追いかけてくれたし、それでお互いに考えていることがわかる間柄だったから」
※週刊ポスト2014年7月4日号