また茶道具の価値に関しても、久秀はどこか醒めていた。
〈実体のないもん持ちあげて己の価値を高めるいうたら、なにやら血統やら家系やらにも似とるな〉
そして才ゆえに満たされず、〈餌を購うのは絵になりません〉と嘯く兄の孤独を知る弟は言う。〈兄上は、いつだって遊んでいる〉〈天下を、すべてを弄んでいる〉と。
「“絵になるかどうか”に生きた趣味人は、結局、自分の死まで遊び倒してしまった。その結末だけは変えようがないし、何が悪かと言えば命の終わりこそが悪かな、って。セックスだって永遠に続けばこんなにイイもんはないのに、何事にもいつか終わりはくる。死を生まれながらに孕む俺たち人間は、根源がもう悪なんだよね。
たぶんそこまで見切っていた彼を俺は悪人とは思えないし、悪事も散々してきた人の方が究極は優しい。少なくとも悪い人は何事も自分で決めるからさ。他人の目がないと何もしないイイ人と違って(笑い)」
だからだろう、花村氏は彼の死に際してあるドラマを用意する。つまり茶釜に繋がる導火線に誰が点火するかだが、その前段となる久秀と蘭十郎の会話がまたいい。〈「ほんまにな」〉〈「はい」〉〈「討たれてやりたい、思たんや」〉〈「はい」〉〈「この俺がな」〉〈「はい」〉〈「ほんまやで」〉……。
この時、2人は既に60代。ある人物に自分を討たせてやりたいと言う兄に、弟は「はい」とだけ答え、たったそれだけで、乱世を共に生き抜き、裏切りや酔狂や駄洒落の応酬も繰り返してきた2人だけにわかる関係のかけがえなさが、グッと胸に迫ってくるのである。
「俺も昔は売れたい一心で、ついカッコいい比喩や台詞を書き過ぎてた。でも最近はこれみよがしな表現は削るし、読む側にもある諸々の経験が小さな象徴で広がることもあると、やっと思えるようになった。ようやく読者を信じるようになったのかな(笑い)。でも読者第一という人ほど読者を舐めてるし、俺は売れなくていいからちゃんと届く人に届くものを書きたいと思ってる」
いわゆる時代小説の約束事を大切にしたい読者には、確かに型破りにも映ろう。が、久秀曰く、〈「欠けとるやろな」〉〈「俺も欠けとるわ」〉というだけで結ばれた彼らの関係は真実以外の何物でもなく、悪人かどうかなどどうでもよくなるこの読後感は、悪どころか幸福にも近い。
●花村萬月(はなむら・まんげつ):1955年東京生まれ。高校中退後、肉体労働やヒモ生活、キャバレー廻りのミュージシャン等を経て、1989年『ゴッド・ブレイス物語』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。1998年『皆月』で吉川英治文学新人賞、『ゲルマニウムの夜』で芥川賞。『ブルース』『笑う山崎』『武蔵』『信長私あ記』等の他、連作長編『王国記』『百万遍』『私の庭』やエッセイも人気。時代物を書くため7年前から京都在住。170cm、80kg、O型。
(構成/橋本紀子)
※週刊ポスト2014年9月19・26日号