雅子さまのご静養に同行する愛子さま(2025年8月、静岡県下田市。撮影/JMPA)
昭和天皇の玉音放送が日本中に響いた夏から、80年。皇后として慰霊に心身を尽くす母を支えるため、プリンセスは列車に飛び乗った。そんな彼女の胸中に去来するのは、20年近く前から絆をあたためてきた、心優しき青年の姿だという──。
伊豆半島の南部・下田の夜に可憐な花が咲いた──8月1日、天皇ご一家は静岡県・須崎御用邸でのご静養のため、伊豆急下田駅に到着された。列車からホームへ軽やかに降り立たれた愛子さまが身にまとうのは、白地に露草の青い花模様がちりばめられた清楚なワンピース。露草の花言葉は、“変わらぬ想い”──その日愛子さまの胸の内には、その言葉が浮かんでいたに違いない。
天皇ご一家がこの地をご訪問する際、駅構内で地元の人々による歓迎が行われるのが恒例になっている、真夏の伊豆急下田駅。ご一家のご訪問はコロナ禍以前の2019年以来6年ぶりで、夜の8時半という時間にもかかわらず現地にはおよそ100人の人々が集まった。
「愛子さまと60代くらいの女性が歓談されるのが聞こえてきたのですが、その女性は6年前、当時高校生の愛子さまに、持参したうちわで風を送って差し上げたそうなんです。そして今回、その女性が6年越しに再びうちわであおいで差し上げたところ、愛子さまはハッと思い出されたとか。『あ、あのときの? 覚えていますよ。ありがとうございます』と、にこにこ答えられていて、見ているこちらも幸せな気分になりました」(居合わせた乗客)
到着されてから30分以上にわたり、膝を折って視線を合わせ、一人ひとりと丁寧に交流を深められた愛子さま。“愛子さまとぜひお話ししたい”という人々が殺到したこともあって、予定時間をオーバーするほどの盛り上がりをみせた。そもそも、天皇ご一家を乗せた特別列車がこの時間帯に到着するのは、かなり珍しいことだという。
「同行する記者たちも困惑していましたが、これは陛下のご公務に加え、愛子さまが日本赤十字社での仕事を終えてから出発できるよう配慮された面もあったようです。
愛子さまの所属部署は、8月のいまが繁忙期。責任感の強い愛子さまは、休みを取るにしても、ギリギリまで仕事をしてから、とのお考えだったのです。また、ご成婚前は外務省のキャリア官僚として勤務されていた雅子さまも、『(愛子さまに)しっかり働いてほしい』というお気持ちだったようです」(宮内庁関係者)
お勤め先での仕事を果たされた宵闇の時間に、両陛下とともに列車に乗り込まれ、東京を発たれた愛子さま。忙しい合間を縫ってご一家でのご静養に向かわれた背景には、母である雅子さまへの想いがある。
「愛子さまは、ご静養先で雅子さまをねぎらって差し上げたいというお気持ちだったのでしょう。戦後80年の節目にあたる今年、雅子さまは激動の日々を送られていて、“慰霊の旅”のために各地を飛び回られています。
実際、ここ数か月の雅子さまのご体調は極限に近かったようで、6月の沖縄訪問時、7月上旬のモンゴル訪問時には目にお力が感じられないときもあり、いまだ療養中であることを改めて認識させられました。
ただ、愛子さまとともに下田に降り立たれた際の表情は溌剌とされていて、これまでの過密スケジュールをこなされたことへの自信や、7月下旬、ご一家で過ごされた栃木県の那須御用邸でのご静養の効果が出ているように感じました」(皇室ジャーナリスト)
4月の硫黄島訪問に始まり、沖縄、広島、モンゴルと、戦没者の鎮魂という務めに全力を注がれている雅子さま。9月に控える被爆地・長崎へのご訪問にあたって、雅子さまは大きな決断をされた。
「2泊3日の日程が計画されているのです。2003年に体調を崩されて以来、雅子さまは1泊の公務もままならない時期が長く続きました。令和に入ってからも、地方公務は基本的に1泊2日で、今回のスケジュールはかなり異例のこと。御代がわりから6年を経て、雅子さまは“国母”としての責任感を強められているのです」(前出・宮内庁関係者)